「全体文化」より「個の繚乱」

昨日、イオンの中にある大きなリサイクルショップで、突然店内に流れる Like a rolling stone に気づき驚いた。フジロックに出演したBob Dylanの映像がyoutubeにもアップされている。あの賞のせいで、いくらか話題となっているようだが、実際はどうなのだろう。新たにこれはいい、という人がここにきて増えているのだろうか。またその年代はどうなのだろう。
そもそも芸術なりまた文化に対する嗜好や評価はごく個人的なものだ。社会的な全体の評価と、個人が下す評価とはそもそもまったく別物である。社会的な評価をどのように情報として理解しても、個人の心が動くかどうかとは、「まったく」関係がない。
自分の心がどう感じ考えるかということより、その作品が社会的にこのように評価されているということにしか関心が向かないならば、とても不幸なことだ。ネットなど見ると、そういう他人のマスによる評価をまるで自分の感じ考えであるかのように語る言葉を目にする。ひどく奇怪だ。それで飯食っている評論家ではあるまいし、ただの素人がしたり顔で語っている。たとえばテレビ番組を視聴率で評価する。芸能人を経歴やスキャンダルでくさす。文芸作を国際的評価で擁護する。
自分の心がその作品にどう動くか、どう感じるか、なのだ。「心が動いたことがないのだろうか。心が動くのを感じたことがないのだろうか」そう尋ねたくなる。
例えば、僕は今でもSimon&GarfunkleのOldFriendを聞くと他のものでは感じることもできない切ない幸福な郷愁に誘われる。それはもう40年以上前、中学三年の修学旅行に持参したカセットで聞いていたから、その忘れがたい記憶ともはや一体となっているからだ。その作品の個性と個人の体験が一つに溶け合っている。それは他の人が感じることのできない、僕だけのOldFriend体験である。なんと宝物であるかと思う。
特に音楽はごく個人的な体験と分かちがたく結びついている。エコーズ、エピタフ、19回目の神経衰弱、悲しみのアンジー、珈琲不演唱、大阪へやってきた、公園のベンチで、鉄橋を渡ると君の家が見える、悲しい色やね、午前二時のエンジェル、、、きりがない。「それは、忘れがたい個人的な体験に愛着しているのであって、その作品自体の力ではない」そういって鑑定眼を誇示しても、虚しい。個人的な体験を深く彩り、ユニークでオリジナルな体験へと深めるのが音楽そもそもの力だ。個人に与えられた音楽と出会う特別な恩恵と言い換えてもいい。それを他の人にそのまま感じて貰えることなど不可能だ。個人の主観と切り離して音楽そのものに客観的なランキングをつけようとすることにどれだけの意味があるだろう。
例えば、女性を或いは男性を好きになることと似ている。評判のために心深くから惹かれるわけではない。社会全体の下す客観的なランキングでその魅力が決定されるなら、一人の男と一人の女が出会い付き合い、あるいは結婚し二人の子を育てることなどありえないだろう。
あの人の替えがたい魅力を見出すことができたのは、その人だけだった。それに尽きる。
だから、公的な評価基準や評価そのものはそれでいい。それ自体を否定はしない。しかしそれはあまりにも一面的で半分の意味もない。
「私はどう思うか」であるし、「それでも私はこう思う」なのだと思う。
文化に対するマスのパブリックな見解など、「一方の意見」に過ぎないのに「私の感じ考え」よりも優先せねばならないならば、文化の退廃と言っても言い過ぎではないと思う。
千差万別多種多様の感じ受け止め考え評価があって、その結果としてスーラの点描画のようにトータルな公的評価が類推されるのである。
百人いれば百通りの、一万人いれば一万通りの感じ方受け止め方心の動き方がある。心がひるみ、怖れ、委縮し、怯え、のびやかに広がり、安らぎ、踊り出し、力に満ち、静かに落ち着き、深く悔やみ、怒り、驚き、憎しみ、恨み、哀しみ、嘆き、、、そうなのだ。それを失って、何ができる。
だから文化は提供する。消費される快感を供給するものだけが文化ではない。ありとあらゆる感じ受け止めを豊かに生み出すのが文化だ。豊饒な個の文化が咲き乱れる。
のっぺりと統一された仮面のような感じ受け止めに支配された文化の死。その美しく腐敗した「全体文化」をかき乱す、「個の繚乱」をこそどこまでも求めたい。