投稿文芸誌「文芸エム」
この夏創刊した「文芸エム」は同人誌ではなく、投稿文芸誌とした。それは同人グループという閉じたサークルにはしたくなかったからだ。そうした内向きのグループにはおのずと権威や多数意見が形成され、下手すると序列までがごく当たり前のように生まれてしまう。これらは個人の創作技能、力量の深化向上にとって不要なだけでなく、阻害要因と私には感ぜられる。
しかし切磋琢磨し合うことで、技術はもちろん意欲や動機づけにおいても大いにグループメンバー同士が刺激を受け支え合うこともあるだろう。それでも、果たしてそれが自身の作家的成長に本当に寄与しているかどうか、十分な精査は必要なのではないだろうか。
そもそも文学は孤独な営みだ。たとえば舞台や映画であれば、それぞれが欠かすことのできないピースとして役割と働きを存分に発揮し、それらが結集し全体として一つの総合的な表現作品を生み出すことになる。一人一人はそのミッションにおいて全力を尽くすが、それだけで作品が完結することはない。「一人では作れない」という当たり前すぎる前提がある。自分とはもとより異なる存在である他者と協同せねば、作品は完成されない。人と人が出会いぶつかり合うメイキングのプロセスは、それ自体がドラマである。
しかし文学はどうだろう。そうした異質が出会う反発や融合といった目のくらむ華やかさとはまったく無縁だ。文学は、誰にも知られずただ一人で始められ、そのままただ一人のうちにそれは終わる。つまり文学は「一人で作る」ものなのだ。文学の肝である。たとえば同じ物語づくりであっても脚本書きであれば、共同執筆はざらだ。頭突合せ泊まり込みでうんうん唸りながら互いにダメ出しを繰り返しながら練り上げてゆくと聞く。しかし文学は違う。徹頭徹尾一人で完結する孤独そのものの産物である。つまり文学創作は、きわめて深淵な自己との対話の営みなのだ。この「自己との対話」を支えるのは、作家の中に醸成されている豊かな「自己との関係」であり、ここに作家的資質も浮かび上がってくる。
たとえば物語の展開や構成に苦心しどうにもならなくなって、信頼する編集者、評者或いは同業者に相談して助言を得る。そのおかげで壁を越えることができたとしても、それが自分の力量を鍛え豊かにさせるものであったか、それとも「他人のふんどしで相撲に勝った」だけなのか、自問は避けられないだろう。作家が自己との深淵な対話の達人への道から脱落する誘いであるかもしれない。そして私は、創作の渦中に他者の意見を聞くと決まって創作はうまくいかない。これは体験的な自分にとっての教訓である。自分の中から生まれてきたもので作り上げねば、その物語世界は壊れる。助言だけでなく創作途中における評価であってもそうだ。たとえ絶賛されるにせよ、影響を受けると世界は整合性を失い崩壊する。
これはあくまで私の個人的見解にすぎない。私は小説や詩の創作法を人から教わったことがない。小説教室や文芸同人誌への参加の経験もない。たまたまそういう機会を得られなかったし、自分から強く求めはしなかったということかもしれない。そのため人の意見を聞かないただの独りよがりだと言われたら抗弁のしようもない。それでもやはり、これが私なりの文学の道と感じている。
しかし文学の峰に一人で向かうと威勢のいいことを言っていても、焦慮と落胆に沈み込むのはいつものことだ。眼前の闇に圧迫されこの先どうしたらいいのかと呆然として途方に暮れるばかりだ。それでもどうにか前に足を踏み出そうと思えるのは、わずかであれ私の作品を評価してくれる人や感銘を受けたと述べてくれる人の存在だ。これはマッチングだ。必ず出会えるとは限らないし、出会えないからいないわけでもないのだ。そういう理解者、共感者との出会いは賜物である。不意に与えられる恩寵だから何より大事にしたい。
だから「文芸エム」を創刊したのは文学の道を歩む者が背負う重荷を軽くするためではない。同じ苛酷さを背負う者同士が無言でかたわらを歩くということにすぎない。そして発表の場を確保することで、出会うべき共感者や理解者との邂逅を手助けしたい。文学を志す者同士ができることはそこまでではないかと思っている。それだけしかできないが、それがなによりもの得難い励みと噛みしめたいのである。あとは本人に委ねられる。そしてつけ加えるならば否が応でも耳に入る批判や忠告のうち、そのもっとも堪えるもの、聞きたくないものこそ、自分がいちばんよくわかっている作品の致命傷、越えるべき堰なのだ。わかっているから耳をふさぎたいのである。
冒頭文芸エムには、権威も多数意見の評価も不要であるから閉じたサークルにしたくないと述べた。それぞれが自己と対話し懸命に創作に向かっているのであれば、そんな暇はないと思うからだ。