「季刊文科」99号同人雑誌季評に「雲の火ばなが降りそそぐ」(原浩一郎)の論評掲載

「季刊文科」最新99号の同人雑誌季評に、私が「WORKS1」に書いた「雲の火ばなが降りそそぐ」が取り上げられている。冒頭9頁に渡る評者河中郁男氏の論評は読むからに力がこもり、熱を帯びている。前半は主に三里塚闘争とはなんであったのか、という問いに沿って論じられている。とりわけすでに世間ではとうに「政治の季節」が終わったそのあとにあってもひときわ苛烈に闘われていたその闘争を身近に見聞していた体験から生々しく語られている。
小説は、真逆に対峙する立場からその体験の刻印を背負った者の「その後」の交錯を描いたものだ。決してその闘争は終わったものでなく、現在も進行中であるからテーマとして書くのはもちろん、コメントするにもためらわれる性質の作品であることは承知していた。とは言え、発表後界隈にまったく反応がないことには、正直言って落胆した。文学であればこそ語り得るものであり、また文学でこそ記され残されるべきであろうという思いはずっと抱えており、稚拙であれ私にとってひとつの結晶であったからだ。
だからこそ、河中氏の共感にじむ長い評には安堵を含んだ報われる想いを呼び起こされた。私が思う「文学」についての思いがまったく的外れな一人芝居ではなかったかもしれないと思われたからだ。

たとえ小説が書かれたとしても、出版され刊行物とならなければ社会に流通はしない。ごくわずかな同人誌関係者が眼にするだけだ。それでも良いと思ったことは、一度もない。人に読まれなければ、書く意味はないと自分でははっきり感じている。だから、以前に一度商業出版したものの版元事情で広告も書店販売の展開もできないまま終わったのみで、それからずっと書籍化出版を果たせていない現状では、「書く意味」を成就できないまま書き続けているということだ。しかしよっぽどのことがない限り、出版したところで多くの人の手に渡ると期待するのはあまりに虫が良すぎることは承知しているが。
小説を書き始めて10年になる。残余の時間を不安がってもせんかたない。「季刊文科」に取り上げられ、評者に熱い文章を書かせるきっかけとなったことには、素直に感謝し励みとしたい。そしてまた、こうして創作に向かうことである。
先日、福島県浪江町に行ってきた。まだ書くべきことは沢山にあるはずなのである。

追記。
ところで「雲の火ばなが降りそそぐ」とは「春と修羅」の最終行だ。もともと作者としてはその小説を「花巻と三里塚」と仮称しつつ書き上げた。結局誰一人その題の引用元に気がつく人はなかった。残念にも。