死臭

さようなら17歳、という本があった。
17歳で自殺した少女の詩集だ。
なんというタイトルだったか、
アメリカの少女15歳のアリスが家出の果てヒッピー生活の中、ヤク中になって自殺する日記の書籍もあった。
二十歳の原点、二十歳のエチュード、青春の墓標。
高校生のとき読みふけった。
田中英光、嘉村礒多、そして生田春月。
夭逝した作家や詩人の作品も読み漁った。
それらは死の匂いのする物語だ。
映画だってそうだ。
学校サボって名画座で見ていたヤクザ映画は、死で溢れかえっていた。
fantasy、イメージとしての死だけではない。
高一の春、好きだった同級生が授業中に倒れ急死した。
高二に上がるとすぐにまた別の同級生が自殺した。
死は身近にあり、振り払えぬ妄想のように精神にまとわりついていた。
あの死は生の別の顔だったのではないかと、やがて否応ない死が訪れる老いの中で思う。
数日前、海洋冒険家がテレビのインタビューでこう言っていた。死の危険に身をさらすことは、つまり生きていることを実感することだ、と。生は死をもってしか知ることのできないものだと。
ならば、ナイフを突きつけられるように死を感じていた日々は、すなわち生きることに究極追い詰められていたのだろうか。
先日亡くなったりりィのファーストアルバムに「死ぬ歌をつくる時」という歌があった。彼女が19歳のときの作品だ。そのリフレイン、「死ぬ歌を作っても、私は生きてる」正直な葛藤の歌だ。さらに言えば、死ぬ歌を作っていたから、生きられたのではないかとも思う。死の淵を歩くとき、もっともしっかりと生きて、死を斥けられたのだとも。
さようなら17歳。
あのみずみずしく狂おしいシンナー臭を思う。