溝口健二「浪華悲歌」1936

「浪華悲歌」と書いておおさかエレジーと読む。
主役は山田五十鈴。おばあさんの姿しか知らなかったが、さすが美しく演技派だ。
製薬会社の電話交換手あや子は、会社の金を使い込み弁済を迫られている父の甲斐性のなさに呆れて父と喧嘩して家を飛び出し会社も辞める。社長から愛人になれと迫られていたことから囲われ者となり、父の弁済金300円を社長から得る。さらに授業料払えず大学を卒業できない兄のために、言いよる別の男から200円を巻き上げる。男はあや子の身体をあてにしていたので拒まれて逆上する。一方、あや子には互いに惹かれ合う会社同僚だった青年があり、いよいよ結婚しようという段になり、隠していた男たちとの関係を苦にする。そこへ警察が踏み込んでくる。警察にしょっぴかれるあや子なのだ。
しかしその理由がよくわからない。新聞沙汰になるのだが、男を騙して金をせしめたという罪のよう。しかし結婚という言葉は一度も出ないので、騙したというのは、身をまかせる、愛人になるという約束を破って男を騙したということで警察に検挙されたようなのだ。ちょっと信じられない。その黙示の契約はそもそも公序良俗に反するものだ。明らかに不当に男性側に立った官憲の横暴だ。もちろんそれは現代からの眼差しに過ぎないのだが。
そして、ここからだ。警察沙汰となることで青年とも別れ、実家に帰るが家族の態度は冷淡で「女のくせに警察に捕まるなんて」恥ずかしくて話にならないとあや子を追い出す。一人橋のたもとで夜空の下、「不良少女という病気」なのだと自分で言って夜の街へ立ち去って行く。
何より警察沙汰となったことが決定的な烙印となるのだ。もう堅気ではない。お日様の下を歩けないような女に成り下がったというわけだ。
しかしだ。あや子を激しく罵り追い出した兄は、あや子が警察に捕まるきっかけとなったその金で大学を卒業する。家から立ち去るあや子を引き止めもしなかった父は自分の横領金の弁済をあや子の金でまかなっている。つまり、世間から指弾されるあや子の行動はすべて、家族の父、兄のためにやむなく決行したことなのだ。
これはいったい何だ。
あや子の父兄に対する犠牲的献身は、なんと父兄から憎しみと追放によって報われる。あまりに理不尽すぎて悲劇とすら思われない。

先日、アフガニスタンの女子刑務所の海外ドキュメンタリーを観た。彼女らの罪名は、夫からの逃亡、家族からの逃亡だ。それで5年8年の禁固刑を受けている。そのほとんどは夫からの暴力を苦にしての逃亡であり、刑務所への収監を喜んでいる。夫の暴力や親族からの脅迫から解放されるからだ。その暴力というのが凄まじい。平然と子供が撲殺されたことなど語られるし、面会で夫はお前を必ず殺してやるなど平気で口にする。彼女ら女性にとっての罪とは夫、男たちの支配に服さず逃れることこそが罪悪なのだ。
ここで思い出すのだが、江戸期の獄舎に収監されている女性たちは現代の私たちが想像する刑法犯ではない。当時の刑罰に禁固刑はないのでいわゆる未決勾留の者たちなのだが、女牢の女たちは官憲によってではなく、夫や親族の手で収監されていたのだ。もちろん奉行に召し捕られた犯罪者もあるが、「仕置き」つまり「懲罰」「懲らしめ」のために家の者が女の収容を願い出て収容されていたのである。刑罰ではないから、その費用を夫や親族が支払っている。
男の罪と女の罪は異なっていた。男が絶対に守らねばならぬ規範と女が守るべき規範は思想的に異なっていたと見るべきなのだ。女の罪は家庭を守らないことであり、家庭における序列支配に従わないことなのだ。
あや子は父、兄に自己犠牲的に献身するが、それは命じられ殊勝に従ったのではない。悪態をつき反抗しながら自分の意志で献身したのだ。それはやはり罪悪なのだ。相殺されない。「従わない罪」は決して消し去ることはできない。それを教えてくれる。
最初の初心な姿から最後のはすっぱな太々しい悪女然とした容貌への変身は劇的である。
これは溝口の好みなのだろうか。女は男への無償の愛によって破滅し転落する。そして、そういう女に限りない愛着を映画は語っている。気になる。これは日本的な女性男性差別の桎梏に関わっている気がする。これは溝口監督への批判ではない。描かれるメンタリティをもっと考察してみたい。
なにか、「瀧の白糸」と重なるものがある。こうしてみると、溝口の後の作品、女性主人公の現代物をもう一度見返してみたくなる。「武蔵野夫人」「赤線地帯」「お遊さま」など、今見ると違う印象もあるのではないかと思う。