溝口健二「瀧の白糸」1933

「瀧の白糸」
サイレント時代の溝口健二映画の名作。売れっ子の「水芸(と言ってもわからないか)の太夫(これまたわからんやろな〜)」つまり英訳 the water magician である滝の白糸、本名水島友の悲恋物語。友は一目惚れした士族青年が貧困のために学問をあきらめたという身上を知り、学資の援助を申し出る。青年は当惑するが、白糸の熱心な誠意に負けて結局受諾する。律義なその青年はただ支援を一方的に受けるだけなのは忍びない、代わりに白糸の願いを命懸けて応えたいという。そしてしぶる白糸にあなたの望みは?と迫る。ためらったあとで、白糸は「あたしの希望(のぞみ)というのは、お前さんに可愛がってほしいのさ」と打ち明け、二人は一夜をともにする。翌朝二人は連れ立って駅に行き、白糸は青年を東京行の列車に見送る。これが物語の始まりだ。あと大変な運命の暗転に白糸は翻弄される。間をはしょるが、やがて一座は経営厳しくなり、いよいよ白糸の青年への仕送りがままならぬことになる。窮した白糸は仕送りのため高利貸しに身を任せ、やっとのことで300円を借り受ける。ようやく金が工面できたと安堵したところに、高利貸しと共謀した敵方一座の男たちに出刃包丁突き付けられ300円を強奪される。怒りに逆上し高利貸しのもとに戻った白糸は、再び高利貸しから襲われそうになり、身を守るため持っていた包丁で高利貸しを誤って殺してしまう。咄嗟に金を奪って逃走する白糸。官憲の追っ手を交わしながら、ようやく青年の下宿にたどり着き、学資を届ける。しかし一目会いたいという願いは叶えられず、そのまま捕縛の身となる。事件は世間の大きな話題となる。高利貸しを殺したのは、敵方一座の男か白糸か。白糸が黙して何も語らぬために、裁判も進まない。そこへ事件の担当として新人検事が着任する。それはあの青年の出世した姿。駅で別れて以来の再会となる。青年は白糸が犯した犯罪はすべて自分のためであったこと、自分の出世のために支払われた犠牲を理解し愕然とする。白糸はただただ立派に出世した青年の姿に心から歓喜し、うっとりと満足している。そしていよいよ裁判の場で、青年検事に促された白糸はすべてを語る。男を殺したのも、その場から金を盗んだのも自分だと証言する。そして舌をかみ切り白糸は自ら命絶ち、後を追うようにして青年もピストルで自殺する。
これは1933年のサイレント映画である。とてもよくできている。原作は泉鏡花らしい。
まず、白糸は若くして人気を博した女性芸能人である。つまり、経済的に自立し、生き方に自分の意志を持っている。最初に青年を見初めたのは彼女の方であり、困窮し未来を失った青年に無償で経済援助しようと言い出すのも彼女である。そしてあなたに抱かれたいのだと言うのも彼女だ。つまり、事態を動かす主導権は彼女が持っている。力関係に於いて、彼女の方が優位に立ってことを進める。これは当時の一般的な女性像からは特異なのではないか。つまり、家庭を持たない立場の女性である。女性を描くならば、ただの主婦では物語の主人公にはしにくいということはあったのだろう。昭和8年。満州事変による中国での戦闘は激化しており、この年国際連盟を日本は脱退し、作家小林多喜二が警察の拷問で虐殺されている。ヒトラーが政権を掌握するのもこの年である。しかし日米開戦のまだ8年前。大正の自由な気風がわずかなりとまだ残っていたのではないだろうか。何より、女性が恋慕を自ら打ち明け、男にセックスを求める場面には驚いた。これは表の建前とは別に現実の女性を描いたのか、あるいは男の側から憧れるシチュエーションということだろうか。扇情的なことこの上ない。それでいて女性は男に尽くして尽くして人生を棒に振る。男の出世が女の喜びであり、それもあくまで陰ながらの無償の献身だ。これは無条件の母性的慈しみと言って良いが、悲劇的な結末に突き進む。またそれを知らず享受した男の成功も最後には破綻して瓦解する。なんとも言えない。いずれにしても、物語としてその展開、女性と青年の交錯して潰える人生模様は悲劇物語としてとても見応えがある。
なお、白糸の「犯行」は殺したと言っても少なくとも殺意のない傷害致死であり、傷害の故意もなければ過失致死だし、正当防衛を主張できるかもしれない。その後に金員を盗んだのは強盗か窃盗にあたるが、高利貸しと奪取犯の共犯関係が証明されたら、強奪犯に対する窃取であるから、相当な情状が斟酌されることになるのではないか。当時の実際の刑事裁判の状況がわからないのだが、公平性なく女性には不利であったのだろうか。
ところで、この映像は完全版でない。白糸の自殺シーンは欠落している。惜しい。弁士の声が重なっており興ざめな部分もあるが、外国と違い日本においてサイレント映画にはもれなく(なのかな)弁士が着いた。面白い。外国映画では弁士などなかった。弁士の台本は映画脚本と同様に脚本家が書くのか、あるいは弁士が自分で書いたのだろうか。弁士の語りをそのままきいてみたい。これはもともと鏡花の小説を新劇が舞台化したものであるし、何度か映画化もされている。そこでは悲劇に終わらず、ハッピーエンドで終わるものもあるらしい。それはさて、どうだろう。