「英雄」史観に辟易

君ヶ畑を訪れ、つくづく思ったのは「歴史」についてのこと。
学校で習う歴史は、要は「権力のステージ」の変遷史だ。平安時代を数百年続いた「貴族の時代」などという。馬鹿馬鹿しいとさえ思う。貴族は日本の中の京都のごく少数の限られた人々に過ぎない。覇権を握りその華美な権勢を謳歌した極めて僅かの人々が貴族としてその生活を送っていただけなのではないか。地域的にも現在の京都市のほんの一部に過ぎない。当時の人口のうちどの程度の割合なのだろう。圧倒的大多数の人々の存在は無視している。こんな馬鹿な話があるか、と思う。
「民衆史」とかわざわざ呼ぶ必要もない。「日本史」というなら、その時代その国に生きた人々のことがわからないと話にならないはずなのに、日本史に登場するのはほんの一握りの絶対勝者ばかり。平安時代、都以外で人々はどのような暮らしを送っていたのか。鎌倉時代、武士以外の人々はどのような暮らしを送っていたのか。それが答えられない僕は「歴史」をまったく学んでいないに等しい。平安時代には京都しかなく、鎌倉時代には武士しかいなかったのか。
歴史と言えば様々な英雄の盛衰物語ばかりでいい加減辟易する。英雄譚を好むのは自分とはまったく関わりない世界に惹かれるということなのだろうか。自分に繋がる過去の人々や場所、その暮らしを知る方がずっと豊かなのに。
しかしここでたちの悪い酔っ払いのようにブツブツくだ巻いてもしょうがない。だから書くしかない。そうなのだ。