内田樹-「映画の構造分析」2004

内田樹の「映画の構造分析」家の本棚にあったので、ペラとめくって読むととても面白そう。部屋に持ち込みゆっくりと読んだ。少しずつ時間をかけて読み、今日ようやく読み終えた。とても面白かった。

映画評の書籍の類は、単に映画紹介ということ以上に評者の味わい方や解釈が独立した読み応えとなるのだが、実はふーん程度の感想しか呼ばないことがほとんど。それよりも、映画を通して精神医学的な知見をわかりやすく紹介する本やフロイトユング的な無意識論の解釈本の方が面白い。
で、この本。内田樹の専門は現代思想つまり哲学ということになるのだろうが、時事社会的な言説がとても健全な武道家という認識程度で、本を読んだことはなかった。とても面白かった。読んでいてワクワクする。こういった本体験はなかなかない。取り上げたいところは沢山あるが、取り敢えず第1章から。
ここで、バルトの「反-物語」論がわかりやすく論じられている。いや、論じられているというより、「反-物語」概念(視点)によって、映画の魅力の「全体」を明らかにしようとわかりやすく解析されてある。

ここでは、まだ、よくわからない。
映画「エイリアン」の全体をこのように明かしてくれる。

そして、数々の映像の性的象徴の意味合いがこれでもかとつぶさに明かされてゆく。それは単に暴き開陳するだけでなく、その象徴が見る者の深層心理にぐいぐいと食い込んで、観ている物語とは別層の「反-物語」が観客を翻弄する具合、つまりは映画「エイリアン」の魅力を明らかにしている。すごいなぁ、まったく納得する。ぜひ読んでほしい。
僕も学生時代、最初に「エイリアン」を映画館で観たとき、シガニーウィーバーが最後の最後まで生存への闘志(当時の僕には、諦めないそれは、まさに不屈の闘志に見えた。実は諦めることも許されない切迫だったのだが)を手放さず、どうにか試練をくぐり抜ける展開に圧倒され、とても強い感銘を受けた。そのときの映画体験が、観ている表のストーリーとは別に見えない「反-物語」を同時に体験していだのだという内田樹の解釈は全面的に賛同して納得する。
そして、「エイリアン」を作り出した映画人たちが、そうした論理的解釈をせぬまま(おそらくだが)ただ面白い映画を作ろうとひらめきアイデアによって作り出しただろうことにも、あらためて感動する。これが創作者のすごいところだ。
分析的批評眼は創作心を萎えさせる、ということが確かにある。創作はやはり苦心の果ての天啓みたいなもんだ。理屈っぽく自身の発想に冷や水をかけていたら、創作などできない。しかし、内田樹の解釈は不思議に創作脳を萎えさせない。それはおそらく内田樹の言説が哲学という論理を超えた天啓に属するつまり「なぜ」から立ち上がってくる思想だからだろう。how でなく、whyなのだ。だから、どこか同通している。不快でない。
「反-物語」は第1章の大きな主題だが、以下とても魅力的なタームがゴロゴロ出てくる。また、触れたい。