HGウェルズ – 「透明人間」1933

映画「透明人間」1933
透明人間という言葉はこの映画より前にも日本にあったのだろうか。原題は the invisible man「見えない人」だから、「透明人間」というのはいかにもナイスな邦訳なのだと思う。
「フランケンシュタイン」同様、科学の暴走に対する警告を主題に含んでいる。当時、大衆の意識に科学への畏れが共有されていたのではないかと推測される。その畏れはいずれの映画でも「神の領域に踏み込んでしまったのだ」という反省の弁が述べられるところから、科学と宗教の尖鋭的な衝突という主題が漠然と人々に不安を与えていたのかもしれない。その問いはもう答えが出たのだろうか。福島を見るまでもなく、科学の勝利と断定は到底できないと思う。
これもまたウェルズの小説が原作。着想の比類ない独創性だけでなくそれを魅惑的な物語として構成するその力はまさに天才的だ。ため息が出る。
主人公の科学者は肉体が見えなくなる薬品を開発し自ら姿を消す。その薬品の副作用で精神に変調をきたし、地球を征服するなどと言い出す。画期的発明を果たした高揚とその効能による万能感を、精神の異常な変容が増幅させ、悲劇は拡大する。たやすく人を殺害できると何人もその手で殺し、さらに列車を脱線させて大量の市民を殺害する。警察は翻弄され捕まえることもできない。結末はやはり火だ。官憲の火による攻撃で窮地に陥る。これもフランケンシュタインと同様だ。科学に対抗するのは、火というそもそもに存在する自然の初源的現象である。これが後になれば、進んだ科学による殺戮手段は格段に進化し、さらに破壊力を増した科学によって遅れた科学を制圧するというグロテスクで不吉なループを目にすることになる。火に頼らざる得ない、どこか慎しみ深い時代に安堵を覚えるのも事実である。危機のもとが、得体の知れない生き物であったり、信じられぬ巨大な存在であったりする現代の恐怖に比すれば、一個の人間大の危険は卑小にも見えるが、実は現実においてはつまるところ何より一人の人間が怖ろしく危険であることはいうまでもない。しかし今はおそらく届きにくい真実なのだろうと思う。目に見える量的な恐怖にしか脅威を感じない鈍感さを想う。
ところで、ここでも必ずのように女性がストーリーに絡む。フランケンシュタインやカリガリ博士のようにその醜悪さや凶暴さを際立たせるために、その対極にあたる美と脆弱の象徴として若く美しい女性を配置して、怪物に襲わせることで観客をヒートさせ、次に危機に瀕した美貌の女性を騎士的に守護しようとする男が果敢に怪物と英雄的に対峙することで、見る者の歓声喝采を煽る。これがひとつのスタンダードだ。しかし、透明人間では、女性はその怪物のかつての婚約者であり、最大の理解者であり擁護者である。ここでは、女性は無力な庇護されるべき存在でなく、むしろ孤独な悲劇的主人公が凶悪な怪物となってもただ一人彼をかばい続ける母性の象徴となっている。無力な女性を怪物が襲うというひそかな嗜虐趣味がない分いかがわしさから解放され「上品」ではあるが、その分怪物のマザコン的弱さが見えて迫力を削いでいる。
名画だ。モンスターものだが、ホラー映画でもありパニック映画でもある。なにより、きちんとしたストーリー、物語性がある。センセーションな事物の描写やその設定によって観客を転がそうとしているものは刺激的でショッキングではあっても、即効的な分覚めるのも早い。きちんとしたよい脚本の物語はじわじわとその効果は後を引く。それを改めて思った。