脚本という全体

先日監督からの講評で気になったのは、物語がきちんと受け手に伝わるかどうかの判断のことだ。物語がついくどくなったり、説明過剰になるのは、受け手が話を理解しているかどうか、作り手側が心配になるためだ。
講評の際、説明的な言葉が余計ではないかという監督の指摘に対し、私が「それで話について来れるだろうか」と不安を述べると、十分に伝わっていると監督から即答される場面があった。
これは経験の乏しさ故ということになるだろうか。やはり受け手の側がどう理解するか、皆目雲をつかむような不明の中だ。
細々と分からせようと受け手に強いている意図はない。ごく基本的な物語の柱となる筋がきちんと描けていないのではと怖れる。
批判ということではないが、ある映画に驚いたことがあった。それは過去の若い主人公と現在の中年となった主人公が出てきたのだが、それと識別できたのは見終わった後であった。実はそれぞれ二人別の俳優が演じていたため、別人の配役と受け止め、それがただ年齢を経た同一人物とは、まったく気づかなかった。そのため物語の基本的な筋の理解に混乱を来した。
それは私の理解力のせいかもしれぬ。そうだとしても、衝撃であった。物語の内容を評価する以前の問題なのだ。公開される多くの映画にそういう失敗はほとんどないし、敢えて受け手を戸惑わせる意図による映画的演出はあるだろう。しかしだ。作り手が意図せず、基本的な柱を受け手に理解させることに失敗しては、台無しとなる。そういう作り手の失敗がありうるということだ。肝に銘じた。
そのせいもあるかもしれない。つい、説明を加えてしまいがちなのだ。
わかりやすすぎる物語は退屈でつまらない。だからむしろ受け手を突き放すような程度でいい。分かっている。しかしそれが測れない。難しい。
それともこれは演出の問題と見てもいいのだろうか。脚本の完成が演出まで踏み込むのは違う。まだ、脚本が演出に委ねる塩梅がつかめていないということなのかもしれない。
そう言えば、講評で脚本家の方から、その登場人物を「大滝秀治」がもし演じるならばその台詞は?と投げかけられた。驚いて、そんな凄いキャストはハナからあり得ないのだからと考えている自分に気づいた。そうだ。脚本書き始めの頃、脚本を書くときつい撮影の予算を考慮してしまっていた。下請け制作時代に身についた貧乏性。苦笑。できるだけ予算のかからない脚本がいい脚本だと思っていたようだ。似ているかもしれない。
そうだ。最高の演出、最高のキャスト、最高の監督に、匹敵し渡り合う最高の脚本を書くことなのだ。そういうことか。ここが作家一人で完結する小説と脚本との差異なのだ。小説は全体を一人で描き切って完結する。脚本は完結する全体の一部を描く、そうであってそうではない。脚本もそれ自体完結する全体でもあるのだ。脚本という全体、キャストという全体、演技という全体、演出という全体、撮影という全体、そしてそれらぶつかり合う全体を統合して何倍もの力にするトータルな監督。
書きながら、少し見えてきた。
脚本という全体。描き切る。