高橋和巳「散華」1963

 先日、或る芥川賞作家が選考委員となっている比較的小さな文学賞に応募し、受賞は果たせなかったが最終選考に残ることができた。相変わらず書いては応募を続けているのだが、このところ早々に返り討ちに遭うことが続いていた。応募三〇〇人レベルだとトップグループに食い込めることは改めて確認はできたので、やはりくさらず裾野から頂上を目指し、一心不乱に歩を進めたい。

 高橋和巳の「散華」を読んだ。並行して三島の短編も読んでいたのでその対照が興味深かった。
 高橋和巳の小説は「憂鬱なる党派」と「日本の悪霊」くらいしか読み切ってはいなかった。評論であれば「わが解体」や「孤立無援の思想」を読んだ記憶はあった。しかし残念ながら深い印象を刻むことはなかった。でもそれははるか昔、学生時代のことだ。もちろん社会はすでに当時の痕跡残さぬほど変容しているし、私自身もこんなに年を取った。今読めばまたきっと印象は違うのかもしれないと思っていた。

 春に神田古本屋の店先で「わが解体」の文庫を目にし懐かしさ半分で購入した。やはりどうしてか、あまり面白くない。切迫した情況下で書かれたものであるから文字には書けないことも多かっただろう。むしろ書けることはほんのわずかだったのではないか。キャッチーなタイトルは先鋭的な思想を示唆してはいるが、その文章から或る思想を読み込むのは難しい。
 高橋はもともと中国古典の研究者であり、作家だ。思想よりも物語の人だったのではないか。渦中に身を投じたのも本来は物語を産み出すためであってよかったのに、書くことを運動の下位概念としてしまったのではないか。こうした血みどろの体験を何十年かけてでも物語に昇華することができればよかったのにと思う。三島も最期、思想の体をなしていない言わば政治的スタイルを自身の天才的な文学創造よりも上位に置いて潰えたように見える。
 いや、それはきっと作家が作家であろうとして已む無くたどった孤独な一本道だったのだろう。安全地帯の観察者から現場の当時者へとその事態にどっぷり首まで漬かったのは、やはり書くためであり作家であるためだったろうと思う。しかしそれでもなお、彼らの手によるさらに巨大で深淵な作品が予定されていたのではないかと惜しまれるのだ。例えば私たちは二人を失ってから連合赤軍事件を経験せねばならなかった。もし二人なら、それをどう語りまた内在化を果たしただろうか。それは大げさでなくその後のあらゆる経緯にまた大きな変異を投げかけたのではないか。その後のオウム事件しかり。私たちは作家の透徹した目を心から欲している。
 ところでこれは河出文庫版だが、実は高橋の本文よりも「高橋和巳の霊」と題された梅原猛の文章の方に深い印象を受けたことを付言しておく。

 先日下鴨神社境内で夏の古本祭りが開催された。京都中の古書店が一堂に会し、炎天下ずらり古書が並ぶ恒例のイベントだ。そこで高橋和巳全集を見つけ、中短編の小説を納めた巻を手に取り購入した。そしてようやくじっくりと読んでみた。「散華」だ。
 散華とは、特攻のことだ。若く有能で尊い存在が自らの手で自身を破壊し捨て去ることで尋常ならざる見えない力が働いて危急の事態が劇的に打開されることを期待する。これは連綿と宿してきた日本人のメンタリティだ。かつて氾濫続く川に橋を架けるには生きたまま奉ずる生贄の人柱が必ず必要であった。そのため橋桁に括られて死んだ村民や僧は少なくなかったという。そしてそれは一方で利己心の乏しい聖者に犠牲を強いることで、我らが生きのびるためにその人を殺す罪悪感から逃れようとする下劣な大衆意識が働いている。自ら進んで僧が人柱になることもあったが、旅の修行僧が村人に襲われ捕らわれて無理やりに生贄として奔流荒ぶる橋桁に縛りつけられ殺害された例も少なくはなかったという。変わらない。大衆は殺しておきながら、手を合わせ祀るのだ。

 小説は、今や企業人として開発のために土地買収立ち退きに奔走するかつての「回天」生き残りと今は俗世との関りを一切断って隠遁するかつて特攻を扇動した右翼思想家との交流と対決の物語である。
 まず、何よりも文章が美しい。いちばん先にそのことに感嘆した。ぬるぬると飾り立てた文章は気持ちが悪い。何が言いたいのか自分で分からないとき決まって無意味な比喩や形容詞でごまかすことになる。描きたい情景が鮮明に浮かび上がる、ぱきぱきっとした明晰な文章だ。美しい。これは私の個人的な嗜好でもある。
 私は詩で文学世界に招かれた。中でも金子光晴は今でも私にとって比類ない存在だ。だから半端な比喩はむしろ好きではない。その明解な暗喩表現に魅入られる。表現したいのは「言葉にならない」ものだ。ユングが象徴について他に置き換えることのできない表現と述べたそのことである。単なる言い換え、置き換えなど意味がない。字義的な意味をはるかに超えて、それを表わす究極の表現だ。
 その一方で、私の文章は編集プロダクション勤務時代に鍛錬し鍛えられた。私を指導した編集者はある全国紙の元記者である。ライターであるから簡潔で明瞭な文章が求められた。形容詞を極力そぎ落とし、誤りない豊富な語彙を用いながら平易な読みやすい表現で指定された文字数に収める。金子光晴が渡欧航路の最中に行っていたという、目に見えるものすべてを比喩隠喩暗喩で表すという詩作のための鍛錬を真似、今でも私は時折そうして言葉遊びをしていることがある。楽しいからだ。そして編プロ時代は、一切を画像や図表を用いずに言葉だけで表現する鍛錬を好んだ。例えば組み立て家具を完成させるための手順を図表をひとつも用いずに文章で簡潔に説明する。目に見える具体的なその状況を、正確に読者の脳裏に再現させる文章表現の鍛錬だ。これも今でもぼんやり頭の中でトレーニングしていることがある。趣味に近い。創作となれば、切羽詰まって歯ぎしりで格闘するが、こうした言葉のトレーニングはやりがいのある暇つぶしのクイズと変わらない。
 そうした来歴もあるかと思うのだが、正直なところ半端な修飾表現もうざいと感じるし、意味不明で構造もまるで出鱈目の文章を目にすると文字化けした英数記号の羅列見せられているようで汚いなと頭が痛くなってしまう。これはもちろん自分の文章であってもそうだ。だから自分にうんざりすることも多い。また、さらに文章は書き手の思想的立脚点も表わすし、ざっくり言えば人柄までをも浮かび上がらせる。文章が書き手を暴いてしまうのだが、これは別の話だ。
 今はもうやめているが、フェイスブックを始めた頃は美しい文章(美麗な修飾を用いているという意味では断じてない)を目にすると、金を払わずにこうした文章読めるなんて最高だなと喜んだ。私が感心したそれらの文章の書き手は、人文系の研究者が多かった。おそらく論文による鍛錬と同時に、表わしたい事物や概念など対象をよく理解し掴んでいるからではないかと思われた。こてこてした「文学的表現」よりも私にははるかに美しく思われた。
 高橋和巳の曖昧さや無駄のない明瞭な筆致に惹かれたのはこうした私自身の「傾向」が多分に影響していると思う。また冒頭書いたようにちょうど並行して三島の短編(「日曜日」)を読んでいたのだが、その文章も一般の評価のとおりとても美しい。しかし私は高橋の文章により惹かれる。
 実は「散華」を読み、この文章の感じをどこかで感じたことがあると思い出したのが兵頭正俊だ。兵頭は立命大全共闘を題材に連作長編を書いた作家だが、高橋和巳も一時期立命で教鞭をとっており、立命館文学賞の選考委員をしていたはずである。その立ち位置の相似からも、兵頭が高橋和巳といかなる形か交差していてなんら不思議はない。なるほどとよく合点がいった。おそらくであるが、兵頭の文章は高橋に強い影響を受けているのだ。また私好みの文章ということで言えば、加賀乙彦を思い出した。加賀乙彦の文章もまた、この上もなく美しいと私を嘆息せしめる。これらは硬質の文章ということになるか。憧れである。

 そして「散華」を読み次に抱いた感想だが、それは台詞の不自然さだ。
 あまりに見事な描写を読み進めていたのに、特に隠遁した老思想家が口を開くと、あまりの不自然さに物語が台無しなのだ。戯画めいてリアリティがまるで感じられない。どうしてだろう。老思想家の生身の人間像がどうしても浮かび上がらない。語る思想内容は概念として輪郭を保ってはいるが、その息遣いや声質本人の体温や体臭が感ぜられない。偉大な作家に対して不遜であるかもしれないが、がっかりしてしまう。
 そもそも人が語る「台詞」は「書き言葉」ではなく「話し言葉」である。また「音声」でもある。次元が違う。
 小説に登場する人物を創作してゆく作業は極めて難儀だ。描く物語の主題や事件、事態を産み出すのも苦心するが、それには人物の措定が先立つ。この人はそしてどういう事件に出会うだろうか。そのときこの人はどのように事態に振る舞うだろうかと、人物像が必然を貫かねばならない。そのためには単純なプロフィールでは全く足りない。現在の生活の様相からその周辺、さらに過去にさかのぼって来歴や幼時の環境や取り巻いた事態などを明瞭に浮かび上がらせて行かねばならない。そうなれば徹底した長期の深い取材ができないなら、手持ちの資料を徹底的に掘り下げて作り上げるしかない。
 脚本講座の指導で中島貞夫監督がまず指摘されたのは「知っていることしか書けない」という作家の鉄則だった。だから人間や世界をどこまで知っているか、それが作家の残酷な限界なのである。
 小説の台詞を読み、それが「音声」として脳内再生されるほどでなければと思う。それには作家が「人物」を作り上げ、さらにそれを読者に表現していることが前提になるが、逆に「台詞」にはその唯一である人物像を生々しく読者にその体温や息遣い、体臭までも伝えるほどの力がある。それこそが、リアリティである。そこまで読者を物語世界に引きずり込めたら、作家にとって至上の快楽である。
 しかし音声を書き言葉で伝えるのは不可能である。うぐいすはホウホケキョとは鳴かないし、コケコッコウと鳴く鶏などいない。鹿児島弁で「ごわす」とは言わないし、やくざ者が威嚇する怒声は「オラ」とは言わない。発音記号で示すほかない。それでもここが作家の腕の見せどころだ。語調やトーンまで伝えられたら最高である。
 ところがまずい素人の小説では台詞までもが書き言葉である場合がある。そんなしゃべり方する奴どこにもいねえよ、と思わず毒づきたくもなる。
 高橋和巳ほどの作家であるのに、この老人のしゃべりは不自然極まりないのだ。インテリが一人孤島で暮らしているという設定があながち不自然とは思われない。現に高村光太郎は戦争賛美の詩作を恥じて戦後は東北に引きこもった。
 つまりこの小説で主人公が対峙する老思想家はリアルな人間像ではなく、ファンタジーなのだ。これは生き残った特攻兵が戦後を生きる上でどうしても対峙せずにはおれなかった幻想の人格と言える。そうとしか読めない。それほどに老思想家に現実感がない。この老人そのものが主人公が産み出したファンタジーなら、現実には彼が退去を迫った現実の老人とは何なのか。辻褄が合わない。つまり、一流開発企業の幹部社員として有能さを誇り、家庭には美しい妻と家庭があるという、これこそがそもそもの幻想ではないか。元特攻兵という事実だけが唯一の現実に思えてくる。これは、戦後に人生の決算を迫られた元回天搭乗員が綴った幻想の手記に他ならないのではないか。そこに託した高橋の慟哭とは何だったのか。

 高橋和巳をネットでググると「苦悩教の教祖」という言葉があった。何も高橋和巳だけが苦悩したわけではない。後世に教祖と揶揄されるにはそれだけの拒否感を新しい世代に与えているのかもしれない。苦悩を切り売りするようにして才能を開花させまた浪費した太宰などに比すれば、高橋は自身の苦悩をそのまま商売のネタにすることはできなかったし、その最期は無惨と言えるかもしれない。それでも救いはたとえば先に触れた梅原猛である。様々論じる向きはあろうが、梅原猛が老齢に至ってもなおその胸懐に高橋の面影を抱き続けただろうことは心を安堵させる。彼が早逝したからこそ、彼はまた長く生き延びねばならなかったのではないか。まるで能物語のような二人の交感である。