決して書かれない物語・村上春樹(加藤典洋「創作は進歩するのか」)

 ある中学生の少女がおびえた様子でお母さんの布団にもぐりこんだ。「変な男が女の子を殺す話を読んだ。怖い」と言うのだ。その小説は「納屋を焼く」。村上春樹の有名な短編だ。
 加藤典洋「創作は進歩するのか」というブックレットにそのエピソードが語られている。「鶴見俊輔を囲んで」というセミナーシリーズの一冊だ。「納屋を焼く」というのはそんな話だったろうか。引っ張り出して読み直してみた。やはり男が娘を殺すなどという記述は一切ない。また娘が死んだとも書かれてはいない。しかし、たしかにそう読める。それは図式的な知的解釈でなく、そのように読んでしまったらもうそうとしか読めない、といった風に言わば魔術的な暗示に引きずり込まれる。「空耳アワー」ではないが、もはや以前のようにただ「納屋を焼く」という風に読むことができない。作家がそのような暗示を意図して構成に込めたとしか思えなくなっている。
 繰り返すが、「納屋」が何かのメタファであるとか、そういう機械論的な解釈の次元ではない。ただ「納屋を焼いた」という告白と娘が突然いなくなるというそのタイミングが絶妙に重なり、硬質で妙に洗練された不気味さが、音もなくそっと背後に立っているかのような無音の虚無に思わず震えあがるのだ。
 
 このブックレットは加藤典洋を招き鶴見俊輔を囲むミーティングの逐語だ。テーマとなっている加藤典洋の評論(2004年桑原武夫学芸賞受賞作)を読んでいないこともあって、とても理解できない箇所も随所にあった。しかしところどころに、なるほどと目が開かれたり、うんうんそうなんだと心地よい納得を得ることができた。文芸をテーマに話題は多岐で広範に及ぶ。鶴見の甚大で無辺の知見が思いがけない角度で議論を縦横に刺激している。面白い。その中で加藤は80年代文学(80年代日本といえば、バブルとポストモダンの時代だ)を凸型と凹型に仕分けする。凸型は村上龍、山田詠美。そして凹型は村上春樹によしもとばなな(以後の代表は川上弘美)を代表とする。凸型は油絵にたとえられ、画布の筆をおいたところに意味が生まれる。一方凹型は版画で、版木の「彫り残したところ」に意味が発生するというのだ。つまり「書いてあることにはほとんど意味がなく、書いてないことに大きな意味が発生する」のである。
 書いてあることで、書いていないことを浮かび上がらせるというならば、これもひとつの喩と言っていいのではないか。とても興味を惹かれた。確か吉本隆明が当時村上春樹を高く評価し(うろ覚えで自信ないが)「小説全体がメタファとして時代社会のクラック(裂け目)を描いている」と述べていた記憶がある。「小説全体がメタファ」ということは、どういうことだろう。もともと小説とは読む側にとってそういうものだし、もう少しその意味するところを知りたい。
 もう手元に吉本のイメージ論はないため、1995年の講演録を読み返した。演題は「文学の戦後と現在」。副題「三島由紀夫から村上春樹、村上龍まで」が示すとおり文学の戦後を三島で語り、文学の現在として村上春樹、村上龍を述べている。
 そこで吉本は「風の歌を聴け」の一節を取り上げその方法を精査している。

「一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、『ジェイズ・バー』の床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした」

「25メートル・プール一杯分のビール」「床いっぱい5センチの厚さにまきちらしたピーナツの殻」。こうした「奇妙な着想によるメタファ」「鮮明なイメージが湧く誇張した直喩」が類例のない才能だと述べているが、吉本も少し触れている通り、これは詩人としての才であり、私にはそれが作家としての優位性とは思われない。さらに言えば詩人としてならば特に図抜けたものとは思えないのである。
 自身が荒地派詩人であり優れた詩批評家でもある吉本が、なにゆえそれほどの驚きをもってそうした村上の方法を取り上げているのか。それはそうした村上の表現が多くの人の心に染み入り慰撫しているからくりに興味をひかれているからではないかと思う。
 確かにたとえば「ノルウェイの森」では初めの方から「死体安置所のように清潔」という表現や「一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光」など思わず心が惹かれる魅惑的なメタファが随所に出てくる。しかし詩の世界であれば、この程度のメタファは少しも新しくないしむしろ入門編のレベルだ。
 さらに「風の歌を聴け」の構成含めた革新性についても、たとえば尾形亀之助や草野心平のダダ詩や言葉を意匠化した萩原恭次郎の作品群(いずれも100年前の詩だ!)に夢中になった者から見れば、なんとも中途半端な破壊性に見えるのだ。今思えば、私は「風の歌を聴け」を小説としては読まなかったのだと思う。それこそ吉本の「エリアンの手記と詩」やあるいは金子の「IL」他長詩群に連なる、散文詩として読んでいたように思う。いちいちその文学ジャンルを規定して読むわけではないが、作品を受け取る私の側が自動的に詩作品を受容する回路になっていたと思う。たとえば梶井基次郎の掌編なども小説というより散文詩として読んでいるが、それは面白かった。しかし、村上春樹の作品は私にとって「つまらなかった」のである。
 十代高校生のころ、衝撃を受けた言葉がある。

「形にあらわれたものは、形にあらわれないものの、たかが効果音である」

 正確な言葉はわからない。記憶の中でいくぶんか改ざんしている可能性はあるが、趣旨は間違いない。目からうろこというレベルではなかった。当時は論理的に思考したり言い表す力を持ち合わせていなかったから。ただただ「うまく言えないが、すごい!」「本当にそうだ!」と震えるようにその言葉を抱きしめていた。早川義夫の著書「ラブゼネレーション」の冒頭、箴言風に書き綴られていた中の一節だ。だから「詩(=文学)は言葉にならないもののためにある」とそのころから固く思っていた。
 つまり、「言葉にならないもの」が先にあり、それをなんとかして表現の技能を駆使して表したものが作品であった。金子光晴の詩を例にとればそれは明らかだ。たとえば「おっとせい」の第一章。

「その息の臭いこと。口からむんと蒸れる。その背中が濡れて、墓穴のふちのようにぬらぬらしていること。ニヒルを覚えるほどいやらしい。おお、憂愁よ。その身体の土嚢のようなずずぐろい重さ。かったるさ。陰気な弾力。かなしいゴム。その心の思い上がっていること。凡庸なこと。あばた。大きな陰嚢。鼻先が青くなるほどなまぐさい。
 やつらの群衆に押されつつ、いつも、おいらは、反対の方角を想っていた。やつらが、群がる雲のように横行しもみあう街が、おいらには古ぼけた映画で見るアラスカのように淋しかった。」

 漢字と改行を勝手に変えて読みやすくした。なんど読んでも圧倒される。畳みかけるその暗喩の凄まじい鮮烈さに眩暈がしそうだ。オットセイに対する嫌悪と反感を隠さずこれでもかと罵倒するように描写している。
 そして続く二章では、はじめにはっきりとオットセイとは何を指すか明示している。

「そいつら、俗衆というやつら」

 凡俗な大衆はオットセイであり、オットセイは凡俗な大衆なのだ。つまり俗衆の一人一人がオットセイであり、俗衆の全体がオットセイなのである。ところで彼は庶民をただ高みから賤視して侮蔑しているわけでは決してない。この詩は戦時下厳しい検閲下に投獄の危険を冒しながら発表されたものだ。大衆が率先して全体主義に邁進し、卑屈かつ傲慢な一体感で異分子を排除しては、勢い込んで自滅に向かう絶望的な日本民衆の様相を生々しくえぐるように活写したのだ。

「くしゃみをする奴。髭の間から歯糞を飛ばす奴。かみころすあくび、気取った身振り、しきたりを破った者には、怖れ指差し『謀反人だ!きちがいだ!』と叫んで、がやがや集まる奴。そいつら。
 そいつらは互いに夫婦だ。權妻だ。奴らの根性まで受け継ぐせがれどもだ。うす汚い血のひきだ。あるいは朋党だ。そのまたつながりだ。
 そして限りもしれぬ結び合いの身体と身体の障壁が海流をせき止めるように見えた。」

 
 こうして金子のメタファと村上のそれと比すれば、背後の情動の違いが一目瞭然だ。それはつまり創作の動機が質において異なっている印象を受けるのだ。金子は個別語句の比喩修辞だけでなく詩作品の全体そのものを通して日本人という「俗衆」を白日の下に暴き出し、また自身もその一人である絶望を吐露するのである。つまり詩人は明確に形を与えられていないが強い情動と深い洞察を伴いながら、形を与えられるのを待っているものとして、先にはっきりと詩人の中で主題を捕まえている。先立つ表現対象が詩人の中に掴まれているのだ。早川がいうところの「形あるもの」によって表現される本体としての「形ないもの」が先立って詩人の中で照射されている。それが創作の原点であり、詩人たるべき資質を示している。
 一方、村上春樹である。彼の作品には吉本言うところの「鮮明なイメージが湧く誇張した直喩」が随所に散らばっているが、そのメタファという形が効果音として響かせる実体はと問えば、それは直截な物質や現象にとどまっている印象を受ける。そこには情動はもちろん意味すら見えない。つまり金子を例示したように、先立って創作者につかまれている形を与えられるべきものがあまりに模糊としているのである。多くの創作者のようには、表現したい形なきものをつかんでいないように見受けられる。これは言わば素人が「何を描きたいのかわからないまま」創作する未熟な態度に一見似通っているが、もちろんまったく異なっている。それは彼の深い精神レベルの恣意的作業の結果なのだ。形を与えるべきものを彼がよく言うところの無意識の闇に敢えてとどめているように見える。つまり、彼から見れば形を与えるべき形なきものをしっかりとつかむ時点で、すでに形を与えてしまっているように彼には感ぜられるのではないか。
 これは構造主義が明らかにした言語の作用を連想する。つまり先に現実があり、それをあらわすものとして言葉があると考えられてきた。先に或る病があり、それをあらわす疾病単位として病名が生まれるというように。しかし、実は先に言葉が現れ、それが意味するところの現実をつくり生み出すということが明かされた。ひとつの病名が生まれることでその罹患者と非罹患者がはじめて区分けされ、その病が現実化するのである。村上の作品はそれに似た創作の転倒を注意深く払拭しようとしているように見受けられる。先に表現されるべき本体があると通常作家は意識しているが、実は表現することで表現されるべき形なきものを作り出しているのではないかと。だから村上は表現すべきものを内心において明らかにすることを拒んでいるのではないか。つまり表現すべき形なきものを自身において明らかにした瞬間、それはもはや形なきものではなく創作者の捏造物と化しているのだと。彼がさかんに創作は潜在無意識から汲み出すと述べているのはまさにそうした、言わば「創作の動機」の放棄であり自らにおいて解体する姿勢と言えるのではないか。たしかに彼は「反小説(アンチロマン)」をあらかじめくぐっていると自ら述べている。
 真に形なきものである潜在的無意識が、顕在意識の概念や言葉に落とし込まれるのを注意深くとどめるそういう緻密な精神的作業を内心において行っているなら、それは優れた精神療法家の心的熟練の霊的技能に等しい。まさに潜在無意識のシャーマンとしての作家である。

 ところで、こうした無意識に直結しようとする創作法は例えばシュールレアリスムの自動筆記とスタイルにおいて確かに似通っている。それでいて彼の作品にはそれらに特有の破滅的な混沌を呈してはいない。ここに村上の決定的な天賦の資質があるのではないか。
 私は実はずっと村上の作品に反発を抱いてきた。私は徹底的に現実を描くことで現実が孕み宿している神意、呼びかけをそこに描きたいと切願して創作してきた。つまり現実とは別なところに解答や救済、または真理を求める態度を拒んできた。それは私が体験してきた現実から託された使命以上の任務であると自覚しているからだ。そして村上の作品は徹頭徹尾非現実である。登場する人物にも会話にも現実感は乏しい。頁を開けば私などその一頁目から「こんなやつどこにもいない」と言いたくなる。一切がファンタジーなのである。しかし私の反発は嫌悪では決してない。リアルとファンタジーというそのアプローチが一ミリも交わらぬほど対立しながら、描き出そうとするものは同一だからだ。だからこそなのである。そもそも見据えている頂きが異なっていれば無視も否定もできる。村上はファンタジー(ここでいうファンタジーはもちろん心理学でいう意識と無意識の間に横たわる幻想観念のことだ)の向こう側に事象事態のはらむ意味の地層における頂き、神意を描こうとしている。私は現実の物質世界、現象領域つまりこの世、此岸そのものの深淵から神意を掬い出し描きたいのである。苦と虚無と混沌の闇そのものである現実にこそ、あまねく意味の根源である救済を見出したいのである。現実にではなく幻想を通じてしか神意に出会えないならば、この現実にはいかなる意味をも存在しないと宣告することになるではないか。私はそう思うのである。
 しかし、私の試みは常に蹉跌の予感を背負っている。闇の中にこそまったき光が潜んでいることを証しするには私はあまりに能力においても資質においても決定的に劣っている。村上と張り合うなど、微生物が巨大惑星に因縁をつけるという滑稽すぎる傲慢でしかない。そして村上がファンタジーを以ってその頂きに肉薄していることを知っている。
 十字架クロスの意匠は地上を生きる人間が抱かずにはおれない二つのやむに已まれぬ衝動をあらわすと教わったことがある。それは「天上への希求」と「地上への郷愁」だ。それは向かうベクトルがまったく異なり、それでいて本来自然な祈りともいうべき深い情動だ。村上の文学世界はまさに直線的に垂直に伸びる天上への希求だ。そして私がそこに立つのはこの忍土、此岸への郷愁である。またさらに言い換えれば、村上がファンタジーとして随所に描いているのは地上一切の事象の根源的本来の在り様の姿、つまりイデアだ。
 村上が画然とファンタジーで描き出す現実のもう一つの外貌は、たとえば「残酷でグロテスク」な描写であり、まるで「静物画」のような性的描写である。
 或る読書好きのアダルトビデオ女優が村上についてこう述べていた。「村上春樹はセックスをきれいに描いているから嫌い。それは彼がセックスを汚いと思っているからだ」この逆説的な指摘は慧眼である。「ノルウェイの森」では恋人が手や口を使って主人公を射精に導く場面がいくつか出てくる。その場面は生々しい淫靡さのかけらもない、清潔で精妙な場面として静かに描かれている。互いに二人ともが裸身をむき出しにして肉体の欲望を交わすのとは違い、ひそかな興奮の高ぶりが女性にあるにしても絶頂を迎えるのは一方的に男性である。男性が興奮しながらもいわば女性にコントロールされ観察されている立場からどこかで意識した視線のために平静を上辺だけでも保とうとすることは想像できる。しかしそれでも絶頂の瞬間は一切の作為や意志が無効化し、それこそむき出しで間抜けな動物の顔を隠しようもなくさらけ出してしまうことになる。それは滑稽なほど無防備であるからこそ、それを「かわいい」と女性が評することもあるのだ。ところが村上が描くその場面では、男が圧倒的快感の爆発に鎧がはぎとられ動物的な無知に呑み込まれる一瞬がまるでなかったかのように淡々と描かれるのだ。明らかに抜け落ちているのである。先の女優が、村上はセックスを汚いものだと思っているからきれいに描くのだという指摘はこうした点を指していると思われる。つまり、美しい物語に不要な生々しく滑稽で猥雑な快感場面を意図的に無視し削除し、きれいごとにしているのだと。一方彼女はその生々しく滑稽で猥雑な場面こそが人間らしくまた美しいのだと考えている。しかし村上は醜く滑稽な男の瞬間を敢えて意図的に不都合だと消去したのだろうか。私は、村上自身が実際にそうした絶頂の一瞬においても動物的に我を失うということがない、あるいはその程度が弱いのではないかと推測している。それは彼の生来の特質であり、それが同時にそのまま比類ない作家的資質となっているように思う。だから彼は汚濁に満ち光闇混在するこの現実世界でも、性のイデア、それこそ天上の性にアクセスし描いているように思うのである。
 これはただ光闇の二項対立で光を選び闇を否認するという単純な態度ではない。精神医療にいくぶんでも触れているものであれば、無意識領域に不用意に触れればそのエネルギーに幻惑圧倒され精神の均衡を失いかねないことを知っている。とりわけ自身の精神が弱り、歪み、乱れ、病んでいるならば、ひとたまりもなく無意識の闇の餌食となり呑み込まれてしまう。村上がダンテやエノクあるいはスェデンボルグのように無意識界に健康なまま行き来できているのは、並外れて強靭な深層心理の基盤と緻密な手術を驚くべき手際で執行するメスのように自分の心性を操り内界を探る霊的技能に熟達しているせいだとみてよい。これは真似しようのない驚くべき作家的境地である。

 凹型の作風、つまり「書いてあることにはほとんど意味がなく、書いてないことに大きな意味が発生する」という加藤典洋の言葉を頼りにここまで村上春樹を見てきた。真似するどころか、学ぶことすら困難に思われる。しかし凹型の作家はやがて凸型へと変貌している。つまり、両者は並立しえない対抗にあるのではなく、それはグラデーションで互いに浸透しあうものだということになる。現実のリアルを描く作風を変更する気はないが、なんとしても版画的訴求力を作品に込めたいと私は念願する。それは相当に困難であっても安易に主題を措定せずに初源の動機は無意識にとどめ置いたまま構想することを手掛かりとしたい。その鍵は意外にも、鍛錬による心的強靭さにあるのかもしれないと思うのである。