村上春樹と吉本隆明

村上春樹が「オープンシステムとクローズドシステムの闘い」というとき、「クローズドシステム」とは極端な場合、外に対して「排外」「排斥」を標榜する排他主義であり、緩やかな表れとしては、自分につながる属性を例えばことさらに優れていると誇示し愛着する自己愛であり、いずれも他者(外)に対する恐怖と嫌悪あるいは侮蔑、自己(内)に対する空虚と撞着を底に隠している。これが、吉本隆明がかつて宗教における信仰像を例示して「党派」性として明かしたものである。これは、ぬぐいがたい人と世の桎梏であるが、吉本は「党派」に「自立」を対置した。それは「態度」の提案であり、多くの者が「自立」に救いを期待して自ら踏み込んでいった。それは提案であり、解答ではないと知りつつ。また、同時にそれは一度「党派」性に目が開かれたら、常にその罠に自覚的であることを与えてくれた。吉本の立ち位置からの究極の誠実と理解する。村上は思想家ではない。代わりに「オープンシステム」の物語を提示する。それはもちろん言葉においてもメタファの深み、寓話としての物語でしか表せないことをはなからの出発点としている。これも村上が預言的文学者(作家はそもそも預言的であるが)である所以と言える。

このように、吉本と村上の「全体主義(ファシズム)」に対する深い考察は大きな示唆を提示してくれている。これはそのまま、「業界知」と「本来性」の眼差しに重なる。これは別途。

(ところで上に書いた「預言的」の「預言」とは神(絶対性)の言葉を受け取り語るということ。未来予知の「予言」ではない。いちいちこうして注釈書かねばならないのは腹立たしい。以前に「天使」と書いたとき、ギリシャ神話由来のキュピドと勘違いされ、「ああ大人の天使のことですか」と言われ絶句したことがある。またファンタジーと口にしたとき、それを非現実観念ではなく「メルヘン」風ロマンチックイメージと解されたらしく会話が続けられなくなったことがある。嫌になる)