溝口健二 -「雨月物語」@ 出町座

出町座は出町の桝形商店街を河原町側から入ってすぐ、その角に出町座の表示が目立つ。一階は味のあるセレクトの書籍群が並ぶカフェ。階段の上り口にチケットの自販機があり、その脇の机でスタッフの広げる紙に50席がプリントアウトされている。席を選ぶ。二階に向かう階段の脇には映画関係の書籍が美しくこじんまりと並んでいる。
会場はとてもきれい。小さい。しかしひとつひとつの席はゆったりとしており、また段差が大きく前の席の観客に視界を遮られる心配が全くない。
上映の前にスタッフから簡単に注意。なんだかすごくいい。
ミニシアターと言っても、旧型の小ぶり映画館をリフォームした感じのものが多いが、比べたらまさに「ミニ」シアター。すっかり気に入った。
で、「雨月物語」。
やはり素晴らしかった。
能楽の囃子や謡に琴の音も聞こえる。それだけでうっとりとする。
そして何より京マチ子だ。
最初、市で器売る主人公の男の前にあらわれた彼女の笑み。妖しすぎる。
屋敷に入る時は荒れ果てている。しかし、男が上がってしまうと、もうそこは贅を尽くした立派な御殿だ。その変化、自然過ぎて今まではっきりと気づかなかった。一歩屋敷建物に足を踏み入れたときから、もう男は幻惑されていたのだ。
そしてその才能を花咲かせるには、姫と契るのがよいと誘われる。戸惑う男にがばと抱きつき、男の驚きが快楽の酩酊へ傾きかけたとき、艶やかな目でさっと身体を離す。
朝方、何も覚えていない男に、夜にあんなことをして、と言って、恥じらうようにしな作り、にたりと流し目を送る。
あなたはもう私のものになったのだから、命を賭けて私のために生きねばならないと告げる。
魔性か物の怪と疑念を持っていたものの、やがて男は甘美な快楽に身を浸し、取り憑かれて行く。
湖岸のくさむらで、姫にすがりつき倒れこむ男。
ここまで姫の仕草の美は完璧である。立ち居振る舞いの一切が一分の隙もなく美しい。舞なのだ。爪先から足首、膝から腰、そのひねり、傾ぎ、それは指先から首筋までまさに芸術的な動きだ。ほれぼれする。人間離れしたその美しさを演じ切れる京マチ子も凄いの一言。
その頃、残された妻は追われた村で落武者の手にかかり、子をおぶったまま殺害される。崩れ落ちた母の背で泣き続けるおさな子。
町に出た男は顔に浮かぶその死相を見咎められ、旅の僧から曼荼羅の真言を身体に書き記される。
屋敷に帰り何かしら異な様子の男に抱きつこうとしてハッと険しい面相に一変する姫。その変容。死霊として怖色のドス効いた声で男を呪い、罵り悪しざまに責める。凄い。本当に凄い。その恐ろしさは女が自身に見舞われた不運に由来する無念の情念である。例えば圧倒的物理力に対する恐怖ではない。見えない怨念の力に対する怖れである。女はただ「恨めしい」のだ。哀れである。
ここで、姫の尋常でない美しさはそもそもこの世のものではなかったことが明らかとなる。男ははっきりと姫の虜から抜け出て行く。
死した姫がこの世から逃れられず成仏できないのは、女の歓喜を知ることなく死んだ為の未練と無念だったと明かされる。乳母が言う。「姫に一度でいいから女としての愉楽を味わせてあげたいと」だから男と味わう甘美な愉楽は死霊の念願だったのだ。
凄い。この死生観。
ところで、男が死霊とまぐわい快楽を貪っている間に、虫けらのように落武者に殺された男の妻も物語の終わりにて、死した身でありながら、男の前にその姿を表す。それは男と子を案じてのことだ。
死んでのち人をたぶらかす死霊となるか、うつし世の思い人を案じ見守る天の霊となるか。そのコントラストは絶妙である。説教臭くもなく、美しい物語を完成させている。

ところで、死霊が妄執に囚われた性の愉楽は現代においては少しわかりにくい。そこで快楽は「肉体」にただ由来する快楽ではない。アダルトビデオ文化における快楽と雨月物語で死霊に惑わされる快楽とは異質に思える。アダルトビデオ時代における性快楽は、一方で日常のストレスや抑鬱或いは孤独や虚無が対抗の苦痛或いは重荷として存在するが為に、それを魔術的に打ち消す肉体による究極的なまさに麻薬としてその価値を占めている。しかし雨月物語における快楽はそうしたいっときの言わば祭りとしての快楽というよりも、一切無辺を凌駕する精神性や肉体性に渡る満ち足りた夢幻愉楽としての快楽である。つまりその源となる欲望は支配或いは束縛の欲動、嗜虐であり被虐の欲望であり、また所有や物質への初源の欲求であり、際限のない飽和への耽溺、最高形態としての異次元満足と言おうか、すべて溶解してだだ漏れする無意味の快楽なのだ。それがつまり「快楽」であり、それが性快楽の完成形ということだ。
絶世の美女との性快楽へ我を忘れるというだけでなく、あまねく全体的な忘我ということである。これが、例えば浦島太郎の竜宮城体験そのものだ。つまり、苦に対する「快」の戦慄すべき様相を暴いているのである。
だから、簡素で貧しい生活の営みが対置されるということになる。それは「快」の暗黒面に対する、「苦」の光明面を表していると見ることができる。これは現代、欠落した哲学だ。幸福信仰が決定的に見落としている避けがたい無限ループのトラップである。

そしてこのように雨月物語の主たるテーマは死生観だ。死を考えないとは生を考えないことと同義である。繰り返したい。死から目をそらすとは、生を見ない。死を軽んじ無視するとは、生をゴミ箱に自ら放り捨ててしまっているのだ。夢幻能にせよ、死を物語に包含するものは深い。まさに生に焦点する物語だ。
死を含まない生など幻想に過ぎない。

「雨月物語」出町座では二月の下旬にあと一回だけ上映がある。また平日だ。何度でも能楽の演目見たいように、もう一度観たいが、どうだろう。可能か。
観たい。