それでも前橋には行こうと思う    ~ 前橋文学フリマ中止に寄せて

 やはりと言うべきか、前橋文学フリマ中止の連絡が昨夜届いた。開催の約十日前の決定である。すでに納めている出店料は費用を差し引き、その半額を返金すると記されていた。今の若い文学ファンはおしなべて大人しいので、落胆しても黙って事態を受け入れてゆくのだろう。私など、すぐに前橋の貸会議室で単独文学フリマができないか調べたが、こちらの思惑を阻止されて癪にさわるのは今どき「老害」認定されそうである。

 いずれにしても、前橋には行く。決めている。文学フリマに出店を決めて以来、いつの間にかすっかり前橋への憧れが宿ってしまった。もちろん観光的な意味合いではない。もともとそういうことで心踊るような心性ではない。萩原恭次郎が生まれ育ち、そして死んだ土地に触れてみたいのである。きっと百年前の痕跡などほとんどないだろうが、それでも川や遠景の山々など、萩原恭次郎という一人の魂がその短い人生で眺めただろう同じ風景を感じたいだけだ。前橋文学館のサイトに恭次郎の遺書が紹介されていた。党派や勢力に拠らず、市井の民衆一人一人と肩組み笑い合いたいと念願していた詩人である。絶対自由に憑かれ社会に向かう、彼にとって詩とは、文学とは何だったのか。前橋の地で考えてみたい。

 実は文学フリマに出店している理由のひとつに、大げさに言えば新しいかたちで文学を奪還したいという思いがあった。学校でしか文学を知らない人は不幸だ。あんなところに文学などない。そもそも文学は常識やしきたりや多数とはまるで別個なところにいのちを保有している。だから力がある。だから人を救いもするし、人生を動かしもする。多数の人に不快感を与える作品を展示すべきでないと地方政治家先頭に大騒ぎがあったが、話にならない。薄っぺらな「深いい話」など、文学のいちばんの敵である。文学をなぐさみものにしてはならない。傲慢にも本気でそう思うのである。そして、共感し合える同志と出会いたかったのだ。

魂の文学のために

【言葉の力】
 言葉の力に対する揺るがない確信。その力にこそ依拠する覚悟。

【世界は物語にあふれている】
 日常の出来事や事態が宿す深淵で甚大なドラマへの限りない郷愁。

【生は死とともにある】
 限りのある生の営みを死の側から眺める畏敬の眼差し。

【力のある文学】
 消費されるための文学でなく、深奥からむしろ衝き動かす文学。

【文学の復権】
 文学をしてそのいのちにふさわしく市井で働かしめよ。