D・チャゼル -「セッション」

師弟関係がテーマということになるのだろう。或いはほぼ同義だが、成功に憑かれた青年のその特殊な技能習得のための過酷な道筋、とでも。
助演男優賞などアカデミー部門賞に輝いている。映画館で予告編を観たため記憶に残っていた。物語にはさすがに引き込まれるものがあったが、場面構成やカメラワーク、また脚本づくりの側からも観ていたので呑まれるほどに魅入られたわけではない。公式サイトなど見ると最後場面のちゃぶ台返しをやたらと強調し「映画史が変わる!」など喧伝しているが、僕にはその「意外さ」がなんか釈然としない不満として残った。

確かに思いがけない真相を隠すためには、最後までその虚像があたかも実像であるかのように描き切らねばならない。完璧に騙されたその分だけ、後に暴かれた真実の意外さ思いがけなさの衝撃度が増すことになる。それはそうなのだけれど。
例えば、ドラマで登場人物が嘘をつく、という場面がある。いつもそういった場面には注目してしまう。役者の力量があからさまに出てしまうし、また演出の妙も試される。なぜなら、そもそも演技自体がはじめから、言わば「嘘」だからだ。俳優は俳優誰それであって、役柄のその人自身ではない。いかにそれを本当らしく観衆に感じさせるかというところが演技の最初だ。まるでその俳優が役柄のような人そのものであるかのように受け止められれば、演技はそこから始まる。
達者な演者は、第一の嘘(演技)を決して悟らせずに、第二の嘘(台本上の嘘)を観客にそれとなく伝えねばならない。その二重構造をまったく感じさせない、そういう演技を見せられると思わず凄い!と唸ってしまう。
もともとの演技自体がお粗末で、はなから役柄よりも役者自身が前に出ている場合、これは嘘なんですとわかりやすいステレオタイプな「嘘」を演じ、また演出することになり、興ざめすることこの上ない。そもそもの演技がわざとらしいので、台本上の「わざとらしい嘘」がその中に埋没し、どれが嘘かわからないことになってしまう。
「セッション」の最後。物語の延長線として自然な、ある種の謎解きというか、キャラ自身が強面の裏側の真意を明かし、思いがけず自身を明かすところがある。そこまではいい。実はその告白自体がそもそも奸計であったことが、究極場面で明かされ、主人公はとことん追い詰められる。
ここ。その健気な告白や思いがけない申し出は実は「嘘」だったわけだが、それはどう見ても「嘘」に見えないのだ。つまり、ほのめかしが一切ない。「完璧に偽りを演じ切っている」姿を演者が演じ切っている。当惑する。そこまで完璧に偽りを真実らしく振る舞えるなら、それはまたそのキャラ像自身で説明できなければならないと思う。比類ない狡猾な詐欺者、病的な解離性人格障害者の一面を持っているキャラということになるからだ。

古いドラマになってしまうが、古畑任三郎シリーズ。これは、まことしやかな嘘で逃げ切ろうとする犯人を古畑警部が暴き追い詰め、最後自白に持って行くというお決まりの筋立てだ。犯人役は毎回芸達者な役者ばかりなので、そのキャラ独特のごまかし方、狼狽ぶりや開き直りが見られ、とても美味しい。特に印象に残っているのが、鹿賀丈史。探偵を新幹線内で殺害した医師である。撮られてしまった不倫の証拠写真を取り返すための犯行だ。医師であるからインテリである。しかし妻は病院院長の娘で、不倫が明らかになるとただの離婚では済まず、医師としての地位すら失いかねない。自己保身の動機のみの犯行だ。そういったキャラ。犯人と目星をつけた古畑はまるで嫌がらせのように粘着質な追求をたたみかけ、犯人鹿賀はあの手この手でごまかし逃げ切ろうとする。例えば、先手を打って「私が犯人です」と自ら古畑に告げたあとで、互いに顔を見合わせ笑うと、急に真顔になって「冗談はともかく」と言って、語りだす。巧妙に自分は犯人ではないとごまかす。犯人が自ら犯人だなどと冗談でも言うはずがないという詐術だ。しかし、医師であっても、奥さんに頭が上がらず隠れてこそこそ不倫を続け、それが露見しかかると慌てふためき自己保身に汲々として怯える。そういうみっともないキャラだ。だから、その嘘のつき方がとても下手なのだ。巧妙に見えて実は見え透いた嘘であり、「必死のパッチ」ぶりがあからさまだ。うまい!惚れ惚れとする演技だ。人物像のあぶりだし方が絶妙だ。

セッションでは、ちゃぶ台返しのためにキャラがわかりにくくなった。予想もしなかった展開、というのは言わば、前段と言わば矛盾を作り出す。どっちがほんまやねん。ストーリーをただ追っていたら、そのどんでん返しもただ驚きの衝撃ですむかもしれないが、こちらはどうしても全体を見てしまう。そういう安易な仕掛けは一度目は面白くても二度三度見る気になれない。言われてみればなるほど!と、さかのぼってたどるとあの表情、あの言葉、確かに合点が行く。「ああ、これは完璧にだまされちゃったな!」という一種爽快な感慨が残る。
しかしさかのぼっても、そうした巧妙なほのめかしがまったくない。ただ完璧に演じ切られている。ならばどういう人物像なのか。
映画はさらに最後予想を裏切る展開が畳みかけられる。ますますキャラがわからなくなった。どっち?演技?マジ?
そして映画は終わり、あとは皆さんで考えてください、ということになる。

これを脚本サイドから考える。
例えばキャラの人物像がまったく変わって現れるということは、主観の中でのことであれば合点が行く。つまり、その人には「そう見えた」のだ。まるっきり疑う余地もなくまんまと騙された。それはつまり神の目からではなく、その人の主観的体験であれば、それでいい。微塵も疑う余地なく信じていたのは、あくまでその人の主観の中でのことであれば、それは大いにありうることなのだ。そういう主観のもろさは人間のとても大事な要素だ。だから、人は人に裏切られ、人間関係に翻弄される。
セッションは?主人公の主観のせいであったと見れなくもないが、その伏線もない。だから、よくわからない。一体どういう人物像なのか。
助演男優賞をその演技でとっているから、矛盾を孕みつつもひとつの統合された人格像を演じたと評価されたはずなのだ。その答えはやはり、人格の深いところでの解離を抱えた統合されない人格、言わば狂気を孕んだ悪魔的な人物像ということなのかもしれない。
物語の終わりは唐突で、あとは観た者に委ねられる。見応えはあったが、特に感銘は残らない。

長い文章になってしまった。まだ「グッジョブ」について書きたかったのだが、別のときに。