意味とか価値とか

僕にとって、ということだ。
意味であるとか、価値であるとか。
つまり、大切さであり、心動かし行動や選択を左右しときに支配さえする重大なこと。
それらはいつも、僕にとって、ということだ。
だから、僕以外にとってはまったく違ってしまう。
まだ小さかった娘と一緒に浜辺で拾った滑らかな丸みの石ころが僕の本棚にちんまりと20年以上僕を見守るようにそこにある。その本棚から、僕のもとから離れて、例えば何かの拍子に転がって路上にぽつんと置かれたら、それは誰の目にもとまらぬ無価値なものとして姿を隠す。
匿名的でないものだってそうだ。
押入れの棚には古びた赤いランドセルや表彰状やそして学校のプリントやテスト用紙も束になって残されている。僕には愛しいそれらも、他の人にすれば、ただのゴミみたいなものだ。
僕がいなくなれば、同時にその意味や価値、つまりその物が孕んだ目に見えないあらゆるまばゆさも消えてゆく。
作品も実はそうだ。
金子光晴の詩や坂口安吾の言葉は今はない鹿児島紫原の四畳半、あれは1973年の日々と一体であるし、兵頭正俊の二十歳は立命広小路とつながる。
それもこれも、僕にとって、ということだ。それをこうして語ることはできても、伝えることは困難だ。だから、君にとって、とか、あの人たちにとって、ということを僕が理解などできやしないという当たり前のことを、忘れずにいたい。
そしてそれが、他にとってはまったくどうでもいいことであっても、だからと言って、僕にとっての意味や価値が薄れたり色褪せるはずなどない。もとより、そういうことだ。
だから普遍は個別の深淵に横たわる。ただの深みではない。おそろしい深淵にだ。そこにおいてのみ、つながり、共有という言葉がようやくかすかに姿を垣間見せる。神は孤独と違うところにでなく、孤独の向こう側におられる。そのことを思う。