字義を越えて響くもの

先日、ふと尾崎豊の「I love you」を外国人Youtuberが聞くReaction動画を見た。尾崎については、若くして死んだ日本で有名なシンガーソングライターという程度の予備知識のようだ。もちろん歌詞はわからない。みるみるそのYoutuberは表情が変わり、歌を聴きながら涙を流していた。英語馬鹿の私にはso sadとかcoolとかいう単語しか聞き取れなかったが、なんとなくその感動は伝わった。ライブの尾崎はメロディ、歌詞、声質そして彼の顏や表情が奇跡的に融合して完成された無敵の作品だ。私は彼の特別なファンではないが、それでも心の奥をゆすぶられ、涙があふれることがよくある。そして例えば「I love you」なら、やはり歌詞が絶妙だ。素晴らしいと思う。軋むベッド、子猫のような泣き声、愛が白けてしまわぬよう。その言葉の使い方はやはり天賦の才能だ。どうしても日本語が分かってしまうので歌詞抜きに曲を味わうことは難しいが、それでもそのYoutuberは歌詞も分からずその曲の核、いのちをきちんと感じ取っていた。
それはもちろんメロディのせいもあるが、声がすでに悲しいからだと思える。あがきや自己愛や挫折や不安がにじんでいる。だから、歌詞にかかわりなく、やはり悲しいのだ。

先日、金子光晴の紀行文の古本をもらった。金子の文章は読みやすくはない。ちょっと不思議に思う。詩であればそのままでとても美しい文章とも思えるからだ。
私は自分の文章で、いい感じだなと思えるフレーズやテンポが、実は吉本隆明や金子光晴に類似しているのに気づきとても驚いたことがある。オリジナルな自分の文章のテイストだと思っていたが、パクリじゃないか、と自分で焦った。つまり、自分の大好きな文章をあまりに脳内反芻していたせいで、ずっと離れていても知らぬ間に、影響されていたのだ。なにも吉本の文章総体から影響を受けたわけではない。彼は思想家だからその思想にはもちろん影響を受けたが、もとは詩人である。詩にも好きなフレーズはたくさんあるが、それよりも頭くらくらするほど痺れた文章は、たとえば「マチウ書試論」の最後のあたりの有名な文章だ。
「人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。」
うっとりとする。
そして金子光晴の詩。
「『人生は玩具(おもちゃ)だ』と海は言う。秋、槍の穂先のようにキラキラする水、黒い船影(シルエット)の港よ!爽やかな悲よ!魚樽を投あげ、又、磯臭い島の人達をはこんでゆく、秋色新鮮な小汽船を、蒼空に煤を吐きながら小さくなってゆく一の姿を、私は、今日も同じ埠頭場の手擦から眺めていた。
『人生は玩具(おもちゃ)だ』と、嘔吐の臭をはこびながら、海はいう!」(「大埠頭にて」)
初めてこの詩を読んだ16歳のときからその感動は今もまったく変わらない。うまく言えない。切迫して、凍るように冷たく、先鋭的で、深くて、軋んでいる。たまらない。こんな言葉、どこにもない。
だからなのだ。尾崎が何を言葉で歌っているかわからなくても、その声が悲しみを伝えるように、書いてある言葉の字義を越えて、文章のリズムや使用する語彙など、その文章ぶりが読み手を動かすような、そういう書き手であったらと激しく憧れるのだ。

美しい金子の言葉。

「蛾よ。
なにごとのいのちぞ。うまれでるよりはやく疲れはて、
かしらには、鬼符、からだには粉黛、時のおもたさを背にのせてあえぎ、
しばらくいって憩う、かいないつばさうち。」(「蛾」抄)

「君のつめたい創ロや
白く割れた切り口がかたる。
“生きるということは、ごらんなさい。
こんなに創だらけになることですよ”

僕がさわれる君のどの部分も
ことごとく君のいたみどころだ。
君の疼きに吸いついているのは
それは僕というきず口だ。

僕の口の空洞と、君の泥の唇と
ふれあうかなしみの粉霧が
あばら おしつけあう肋と肋の隙間から
サイフォンのように噴きあがる。

いよいよ透明になってゆく君を
僕の心が、自在に通りぬけ
そして、ふりかえり
そして眺める。せんすべもなしに。

注ぎこんだ僕の碧血が
試験管をみたすように
君の静脈の枝々をめぐり
あみの目の末端を染めてゆくのを

また、レントゲン写真のように
君を透射してうつしだす
君のこころが悩み辿った痕跡の
シャフテンの微妙なかさなりを。」(「風流尸解記」抄)

やはり私は詩が好きだとさらにあらためて思うのである。

「きょうから ぼくらは泣かない
きのうまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活の中からみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の傷から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす

しめっぽい貧民街の朽ちかかった軒端を
ひとりであるいは少女と
とおり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしている
胸のあいだからは 涙のかわりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらわれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とおくまで
ゆくんだと告げるのである

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合わせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによって
きみはぼくらによって ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ」(「涙が涸れる」吉本隆明)