NHKドキュメンタリー「『津軽』生誕100年 太宰治と故郷」2009

NHKプレミアムカフェ「『津軽』生誕100年 太宰治と故郷」(2009)を見た。再放送を求める人気が高かったというが、さすがに見ごたえのある番組だった。
冒頭、新潮文庫の文芸作の累計発行部数の上位十作品が表示されたが、二位に人間失格、そして八位に斜陽が並んでいた。それほどの人気作家だということ。私も最初に読んだのが人間失格で次に斜陽を読んだ記憶がある。15歳だ。ひどく衝撃を受けその他の作品も次々に読み、全集まで古書店で購入したが、それから様々出来事もあり、もう17歳になるころにはその作品群を自ら遠ざけていた。太宰作品に惹かれる自分を自分ではっきり拒絶していたからだ。
番組は、五所川原で開催された劇「津軽」を軸にその主演を担った村田雄浩がナビゲートする形で進んだ。ところどころ「津軽」の朗読や原文が表示されるのだが、冒頭から「太宰節」で久しぶりに触れるその文章はさすがにおそろしくうまい。短いセンテンスをぽんぽん放り込んで、まるで語るような調子だから惹きこまれる。短い文章が小気味よいのは当たり前だが、長い文章もとてもきれいだ。くどくどしくなく、長さを感じない。むしろこちらにとても感心した。「津軽」物語の展開はやはり胸にグッとくる。最後の「たけ」との再会のシーンなどべたに泣ける。この魅力は、やはり太宰作品の主題が「敗北」を基調としているからではないか。成功譚や栄光談義ではない。躓き、失敗、転落、そうした人間の傾きをときに自虐の滑稽話にして、ときに切々たる哀しみとして描いている。
先に三島の太宰評をここに書いたが、三島が同じインタビューで面白いことを言っていた。作品が破滅物語であろうと、読む者は却って救われることがあるのだと。例えばゲーテのウェルテルは最後自殺する青年の物語あるが、読者はむしろ生きる力を与えられているのだという。
評価は人によって自由だが、私は今でも太宰の小説は好きでない。「人間失格」や「斜陽」など、むしろダメだと思っている。あんなもの書いてはいけないし、人に読ませるものではないと思っている。悲劇だからではない。悲劇ですらないと思っているからだ。
シェークスピア悲劇やギリシャ悲劇の深みには圧倒される。また、たとえば能楽の幽玄ものは大概が地獄に墜ちた魂の怨嗟や悲嘆の物語であるが、私はとても心揺さぶられ魅入られる。それは人間の弱さ愚かさ、浅ましさいやらしさになんとも言えない人間的郷愁を感じ、そして私自身の闇が癒されるのを感じるからだ。もちろんその癒しはせいぜい痛みの軽減にすぎない。逆転を意味するものではない。布団にもぐり込んでいた人が、ようやく這い出ることができるようになる程度の回復だ。もし救済というものがあるとすれば、それはあると信じているが、文学の働きはそれをようやく受け取ることができるようになる程度の慰撫であり、救済そのものは当然ながら文学の仕事ではない。
絶望にとってもっともつらいのは、この世に絶望することなどない、という言葉であり空気である。悲しみがもっともつらいのは、この世にはそのような悲しみなどない、という前提や励ましであったりする。この世には、絶望があり、救いがたい悲劇がある。信じがたいような悲しみがある。それを知る人がかたわらにただあるだけで癒される絶望があり、苦しみがある。
だから、絶望が絶望を癒し、悲劇が悲劇をいたわることができる。
これがこの忍土の仕組みだとすぐれた悲劇物語は教えてくれるからだ。
しかし、太宰のすべてではないが暗く破滅的な作品群はそのような悲劇物語とは違うように私は感じる。絶望をさらに絶望させ、悲劇をさらなる悲劇の深淵に引きずり込もうとするもののように思う。なぜだろう。確かにそう感じるのである。狡猾な底知れぬ闇の誘惑の力を気配に漂わせている。それはおそらく、虚無、であるかもしれない。
虚無は、「意味」や「甲斐」が消失した空洞だ。だから、希望を持て、というなら、意味を感得することができるよう行き道を同伴できればいいと思う。自分自身に対して、人に対して、世界に対して、意味を失った人に「悲劇のかけがえのなさ」「絶望の大事さ」を抱きしめるように伝えられたらと願う。
それを物語であらわすにはどのようにすればよいのだろう。
友部の歌の詩に「私は夜明けを待つ患者です。胸には名札をつけています」という一節がある。太宰でかすかに救いがあるのは、そうした回復期の患者の清廉なはかなさを全体醸し出す作品だったと思う。作家自身の人格と切り離し、芥川が中国古典を小譚に描き直したように、純然たる創造者である作家に本来はなりたかっただろうしそれが使命だったのではないだろうか。痛ましく思いながら、なにより自身が努めねばならないことに歯噛みする。
ところで、若い頃太宰を遠ざけて、私が耽溺していたのは金子光晴であり坂口安吾だ。これも果たして、どうだったか。こちらは今も本棚に並んでいる。苦笑ではある。