佐藤浩市-「64」

とても見ごたえがあった。佐藤浩市は頭抜けている。
永瀬も比類ない。以下、主役級ベテラン俳優陣がそれぞれ本気を出している。
よかった。
ただ、警察組織に対抗するヒステリックな記者達-その中心は瑛太なのだが-は単なる悪役として描かれていた。主人公らの誠実や辛苦を際立たせるために、「見ていてめっちゃむかつく」奴らを対置させるという手法に見えたが、警察や被害者らの厚みに比して薄っぺらすぎてちょっと拍子抜け。こういう、「思う存分ぶちのめしてやりたくなる」ヒールが観客をエキサイトさせ、ベビーフェイスの主人公に全面的に肩入れさせるというのは昭和プロレス的古典芸。記者サイドが薄っぺらで無責任な「批判精神」を声高に叫んで、自己犠牲的に苦心している警察や事件の被害者を窮地に陥れるという図式は、いわゆる左翼を嫌悪する無思慮な体制派の構造と重なる。ここはそのエキサイト「興奮」が問題なのである。興奮はすでに物事の是非もすでに決着した末の段階になってしまうからだ。それはもう議論の余地もない自明のことであり、その決めつけに同調しない理解しない奴が「どうかしている」という幼児的頑迷さで、「正義」をまとうことになる。だから、惜しい。それは「踊る—」とか「HERO」など小中学生を対象とするスタイルなのだから、「64」がそこまで対象レベルを落とさなくてよかったと思う。もっと重厚で凄みのある報道サイドを対置させ、それこそ奥田英二とかせめて仲村トオルが逆に報道サイドに一人黙して存するだけで、物語の深みはとてつもなく重みを増したと思う。対立する一方をゴーストやモンスターに仕立てて、「ためらいなく容赦なく否定し尽くす」ための存在とした瞬間、それは物語ですらなくなる。この種の扇動が大衆を興奮させ我をなくする熱狂に導くわけで、言うまでもなくそれは「全体主義」の手口、ファシストの常套手段だ。そしてまさしくこれが震災後日本を席巻し支配している悪夢であり絶望である。映画は芸術であるより興行として成功せねばならない商業文化なのであるから、禁断の実に手を出すのも責められないかもしれない。「泣ける–」を喧伝する、文化総劣化の中にあっては、その部分以外は掛け値なしに物語を描き切った「64」はむしろ見事な金字塔と言えるのかもしれない。

https://youtu.be/zY54BvPj9Ak