S・ブロック -「ゼロ・グラビティ」 , T・ハンクス -「キャプテン・フィリップス」

zero gravity

captain pthillips

先週だったか、BSで続けて見たのだが、いずれも究極の危機場面に陥ってから脱出するまでを追うという単純な筋立て。二本とも、切迫した緊迫感が全編に漲りすっかり感情移入させられ、文字通り「手に汗握り、目が離せない」魅入られようとなった。本当によくできている。ばか古いモノクロ映画ばかり見ているので、たいそう新鮮に感じた。それにしてもこれほど観る者を引きずり込むポイントは何だったのだろうと考えた。
キャストの良さはもちろんある。キャプテンの方はトムハンクスはもちろん、海賊の青年たちがいい。海賊リーダーは本作デビューの言わば素人だが、高く演技を評価され賞をものにしている。無防備なタンカーを襲撃するモーターボートに乗った武装海賊はタンカー乗務員の住む世界から見ればまったく理不尽に凶悪で非道な異人である。その「得体の知れなさ」がつまり「何をするかわからない」という恐怖を呼び起こす仕掛けというか、関係性の秘密である。こういう筋立てにつきものの一方的な排他差別であり無自覚蔑視であるのだが、「異者」に遭遇した際の一般的な「警戒」の心情でもある。これを利用しているわけだ。その「こいつら何者」という違和感のような疑問が、少しずつそのパーソナリティの輪郭を小出しにして表すことで微妙なストックホルム症候群もにじませつつ、それでも主人公への肩入れを断念させてはくれない。最後はあっけなく一瞬のうちに米軍特殊部隊によって一網打尽に殺害される。本当に一瞬だ。銃撃戦もなければ、攻撃への驚きを抱くこともなく、一方的にそれぞれ一斉に一発の銃弾を頭蓋に受けて即死する。それは不意の処刑である。そこに残る微妙な割り切れなさ、荒廃した最貧国の青年たちによる凶行の無残な末路。これを英雄物語にまとめあげてしまうのはアメリカだから仕方ない。しかしやはり一方の主人公はやはり海賊グループの青年たちであり、そのリーダーだと観た後に感じさせる。見事な演技演出だ。
ゼログラビティの方はそもそも登場人物がごくわずかの宇宙飛行クルーで、それも映画冒頭ですぐに死んでしまう。生き残るただ一人の女性がサンドラブロック。個人的に好きな女優なので、あの早口の独り言のような語り方だけで「いいなあ」と思ってしまう。通信も途絶した宇宙空間なのでまさに一人であって、ほかに人間が一人も画面に登場しない。ただわずかに地上の能天気なラジオ放送が入るのみである。そうなると演じる俳優のキャラクターによって作品全体が決定されることになる。まさに映画としても「誰も助けてくれない」状況だ。とてもよかった。贔屓かなと自分で思うが、映画は大ヒットを記録しているし賞も得ているからそれは公平正当な評価ということになるのだろう。
キャストの魅力ということを考えると、俳優が変わるとその映画そのものがまったく別物となってしまうのだから、これを小説に置き換えると、徹底的に人物像をしっかりと浮かび上がらせて唯一無二の存在を作り上げねばならないということになる。キャプテンの海賊リーダーのように徐々にそのパーソナルが現れるにしても、その明解な人物像は初めから存在しているが物語の描き手がわざと知らせなかっただけだ。あいまいな人物像のまま見切り発車で書き始め、物語が進むにつれ徐々に明らかになるということがよくある。やはりこれだとだめだ。あとで前半部に手を入れてごまかすことになる。つくずく人物像の造形の力をつけなければと思う。
そして、物語に引き込むもう一つの要素は、やはりリアリティだ。ゼロ–では宇宙空間における無重力による上下左右の無さ、無抵抗の圧倒的な等速度運動がCG駆使され、引き込まれる。その恐怖たるや未体験だけに圧倒的だ。キャプテンはもう言わずもがな。細部にわたるまでごまかしの無い完成度はそれだけで力がある。あいまいさは致命傷なのだと痛感する。
とても勉強になった。