河村吉三「天保義民録 第一」1887

江戸後期に起こった天保近江一揆について「近江大一揆」(松好貞夫1962)「天保の義民」(加藤徳夫2002)「燃える近江」(野洲町立歴史民俗資料館1992)を読んだが、それらが参照した元の文献に当たってみたくなった。押し寄せた農民4万とはやはり信じられない。京都、大津代官所での拷問や江戸送りによって中心的庄屋はばたばたと死んでいる。それでも各村々で義民として祀られ現在に至るまで例年鎮魂祭を行っているにはそれだけの理由がある。もう少し接近したい。
生き残りの庄屋や古老から取材したという「天保義民録」(1887明治22年)がもっとも古い資料でたいがいこれを基本資料としているようだ。「天保義民録」は国会図書館のデータベースからPDFをダウンロードできた。無知無学でこうした作業にはすこぶる不向きなのだが、どうにかテキスト化しながら読み進めることにした。まずは「第一 京都町奉行所より江州の庄屋を召し検地を言渡す事」である。上記二冊のおかげで古書も内容はなんとかかなり読める。
文字がつぶれて判読できない字や見たこともない旧字体などあり、また漢字は判明したがパソコンでは使用されないものもあり、それらは■に代えた。また新字体に変えた箇所もある。相当間違いもあるだろう。あくまで自分で読み進めるためである。


▲土川平兵衛石像(三上小学校) 
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「天保義民録」(1)
        背水処士著
第一 京都町奉行所より江州の庄屋を召し検地を言渡す事

天保十二年■丑春正月徳川覇府十三代征夷大将軍兼右大臣源家慶老中赳前守水野忠邦に命し吏市野茂三郎をして諸国の田を検せしむ茂三郎時に乗して威福を恣にし賄賂公行して頗る苛酷を極む明年冬十月近江の民蜂起して茂三郎を攻む検地のを遂に息む其概略を記すれは左の如し
蜂起に最も関係ある甲賀、野洲、栗太三郡の地形より説き起さん此の三郡は東より西に走り其東に位するものを甲賀郡とす同郡は東伊賀、伊勢に境いし地勢漸次に低くして野洲、栗太の両郡に接す野洲、粟太の両郡は甲賀に続て起り相並ひて西の方琵琶湖に達し以上の三郡は東海或は中山の二道に接す抑東海道は京都に始まり大津を過き勢田橋を渡れば即ち栗太郡にして同郡草津駅に至り東海、中山の両道始めて岐る而して草津駅より甲賀郡石部、水口、土山の三駅を経て鈴鹿山を越へ勢州に至る即東海道なり中山道は草津駅に起り野洲郡守山駅を経て蒲生郡武佐駅、愛知郡愛知川(当時は神崎郡に属せり)犬上郡高宮、坂田郡鳥居本、馬場、醒ヶ井、柏原の諸駅を過き美濃に入る野洲郡に三上山あり一名百足山又は近江富士ととも称する名山にして其高さ一千百八十八尺周囲一里十一町五十間にして山の半腹に妙見堂あり乃ち三上の藩主遠藤但馬守の創立に係るここに登りて湖上を眺望すれは風景佳絶にして近傍第一の勝地なり


浄助法親王の歌に    (続拾遺集雑の部)
雲はるゝ三上の山の秋風に
さゝなみ遠くいつる月影
紫式部の歌に
野洲川や廣瀬は田子の浦に見て
三上か嶽は富士の粧
三上山の南麓に三上村と名くる一邑あり邑中に壮麗なる第邸あり是れ則遠藤侯の陣家にして侯は一萬石を領する定府の大名なり抑此もの三郡には大小の川流ありて就中大川と称すべきものは野洲川、仁保川、屋の棟川、草津川、狼川、大戸川等なり而して野洲川最も大なり其水源は勢州鈴鹿山より出る松尾川と伊賀より出つる杣川と合して横田川となり甲賀、野洲の両郡を横断して琵琶湖に入る此の野洲川や東海道石部駅と水口駅の中間にある渡し場を横田と呼び又横手と称し中山道守山駅と武佐駅間の渡口を野洲川と名く近江全國の総石高は八十四萬四千二百八十二石一斗六桝一合五夕七才にして井伊掃部頭其中二十八萬零三百石を領し(井伊家は三十五萬石なれとも近江に在るは二十八萬零三百石なり)州の北部犬上郡彦根に城し本多兵部少輔は六萬石を領し州の南部滋賀郡膳所に城し加藤能登守は二萬五千石を領し甲賀郡水口に城し高島郡大溝には二萬石の分部若狭守あり蒲生郡仁正寺には一萬八千石の市橋下総守あり神崎郡山上には一萬三千石の稲垣若狭守あり坂田郡宮川には一萬石の堀田豊前守あり三上の領主遠藤侯等にして其外幕府の直轄三萬五千石余は滋賀郡大津の代官石原清左衛門之れを支配し甲賀郡信楽の代官多羅尾久右衛門は在勢州の幕府領四五萬石と共に凡そ十萬石を支配せり然れとも代官の支配地は常に増減あれは一定し難し其外他国大小名の領地、旗下の士即ち幕臣の釆地、社寺の食邑等ありて其管轄頗る錯雑せり今甲賀、野洲、栗太、蒲生郡の石高を挙れは左の如し蒲生郡は拾三萬八千九百零一石余にして栗太郡は六萬五千九百四十八石余なり野洲郡は六萬五千六百九十九石余にして甲賀郡は七萬六千八百二十三石余とす則ち其の合計三十四萬七千三百七十一石余なり此の四郡の領主の■は左の如し
井伊掃部頭、稲葉丹後守、市橋下総守、稲坦若狭守、今川主水、伊藤采女、石丸佐兵衛、同伊右衛門、一尾興市、井口武三郎、石川左膳、同民部、石原蔵人、稲垣河内守、市橋寛次郎、今出川殿(公家)井上武三郎、本多兵部少輔、堀田豊前守北條相模守、堀田鉱之丞、同主膳、同源右衛門、同豊五郎、弁慶勝兵衛、戸田五助、小笠原佐渡守、御■屋松井但馬、織田目圖書頭、同帯刀、同彦四郎、小野飛騨守、岡野熊治郎、岡部椛左衛門、岡升孫三郎、同権右衛門、小野随心院、岡部美濃守、奥田八郎右衛門、分部若狭守、渡邊丹後守、同伊三郎、同伊十郎、同勝之進、同城之進、和田五郎、渡邊勇次郎、加藤能登守、河野豊前守、横田権之助、同甚左衛門、高木伊勢守、竹中大学、武島左衛門、同三十郎、多羅尾四郎右衛門、同久八、瀧川八助。高井五兵衛、瀧川播磨守、建部十郎左衛門、柘植左兵衛、同長門守、根木主水、内藤加賀守、上田弥吉、上林左仲、能勢帯刀、野一色兵庫頭朽木信濃守、同修理、黒川内匠、矢島與八郎、山口藤左衛門、同房之助、山中平吉、柳澤監物、山岡岩三郎、松平陸奥守、松平伯耆守、同伊豫守、同大和守、同五郎左衛門、同八十郎同甲斐守、同熊吉、伏屋新助、後藤庄三郎、國領太兵衛、遠藤但馬守、青木新左衛門、有馬釆女、新見出雲守、酒井紀伊守、斉藤摂津守、三枝土佐守、最上監物、西郷孫九郎、笹山吉之助、同金彌、坂井五郎兵衛、同八郎左衛門、同五郎三郎、木下左門、京極織江、同伊太夫、同伊織、同左門、同能登守、水野河内守、美濃部彦十郎、同與藤治、同亀三郎、同八郎右衛門、同八左衛門神保四郎左衛門、島左京、廣幡殿(公家)尾張大納言、土方半四郎、同河内守、日野若狭守、平岡藤兵衛、本阿彌十郎右衛門、■伊織、諏訪郡左京、同長八郎、諏訪左兵衛、■部勝之■及ヒ石原、多羅尾の両代官等にして其他別に社寺領あり之れを四郡の領主とす
天保十二年冬十一月京都町奉行所より突然江州琵琶湖邊及ひ川々筋の各村庄屋に宛て招喚状を■せり各村庄屋は此の招喚状を見て直に京都に上り町奉行所に出頭せしに奉行口達して曰く
今般近江國湖水■り及ひ川々■各村地先きの空地又は堤外洲寄り地等の新開きと相成る可き場所を見立て御見分仰せ出されたる問其用恵を致し御沙汰と相待つ可し
但し此度の御見分は先年と事違ひ御公儀様より直々仰せ出されし訳にて御公役方自から御見分遊され侯儀に付愁訴歎願ヶ次間敷義は決して相成らさる間其方共に於て能く御旨意を相守り各村長さ百姓は勿論小前の者共に至るまて心得違ひ致吝馨さゝる様急度申付置く可し
斯如のく達せられ庄屋等は退て相共に私語して曰く復た今助の再来なるかと恚憤忽ち胸に迫るも所謂る鷹と雉子なれは詮術なく涕を呑て請書を捧呈し■■として各々■郷の途につけり其請書の文面は左の如し
御請書
一  私共村々被 召出左の通り被 仰渡侯 江州湖水縁■に仁保川野洲川草津川高島郡知内川百瀬川石田川鴨川安曇川通等の御料私領村々地先きの空地堤外附寄り洲の新開きと可相成場所此度為見分御勘定方被差出候間村々地先き新開きと可相成場所銘々絵図面に認め御勘定方廻村の節可差出侯右は願人有之見分被 差 遣侯訳には無之従 公儀見分被 差遣侯事に侯問事実に取調へ可差出候御調の上御仁惠の御沙汰も可有之間心得違致間敷候猶追々取糺の上申渡候義も有之間其旨可存侯
右之通被 仰渡奉畏侯依之御請書奉差上侯以上
何之誰領分又ハ知行所
天保十二年丑冬     近江國何郡何村
庄    屋 某印
京都
御奉行所様
附言
是より先き文政年中に大久保今助なる者公儀へ出願し湖邊及ひ川々筋の洲寄り地見分として来れり是の時に当て検地を受たる村落は非常の苛税を賦課せられ野洲郡今濱、吉川、幸津川、野田、野村の五箇村は其負担最も重きを加へ就中今濱村の如きは六百石零六斗零六合の高より貳百六十石を打出されしを以て全村次第に疲弊に陥り今尚ほ挽回する能はず酷たしき困難なりと云ふ而して此の検地たるは湖邊十箇所村に止めて其他に及ばざりしも江州人民の今助を悪むを毒蛇も■ならず故に今助の再米と云ふなる可しまた奉行所の口達も先般は願人今助に許されし検地なるか故に少々の歎願等は聴き届けしも今度は将軍軍家直に仰せ出されたる訳なれば如何なるとあるも御無理御尤もなりと御受け致す可しと云ふ意なる可し
斯くて見分の日愈々近つきけるに各村の人民は其地頭、領主の代官より歎願哀訴等の事を厳しく差止められ皆色を失ひ聲を呑て見分の寛厳如何あらんと其沙汰をのみ案し居たり
(第二 に続く)