福田雄一 -「銀魂」2017

先日テレビで映画「銀魂」を観た。上映当時特に関心を抱いたわけではない。よくある人気連載漫画の映画版のひとつという印象に過ぎなかった。ネット記事で橋本環奈の振り切ったコメディエンヌ振りが賞賛されていたのを覚えている程度だ。その続編の上映に併せて、テレビで旧作上映するというよくあるパタン。しかし観てみようと思ったのは、「銀魂」が昨年度実写邦画で最高の観客動員を記録した、と喧伝されていたからだ。そうしたデータに関心がないので、例年どのような映画が一位を記録するのか知らない。古い映画ばかり好むので今の邦画事情については無知だ。ただ、毎回映画館で見せられる予告編のいかにも「青春恋愛映画」っていう類には辟易していた。「僕らはその夏、運命の恋に出会えるとは思っても見なかった」とかなんとか。45年一気に時間をワープして、17歳の僕が「けっ!」と道端に唾でも吐き、何が運命の恋だ。そう毒づきたくなるのだ。で、銀魂。よく知らないが、観客動員一位とはどういう映画かと見てみたのだ。
面白い。最後まで観てしまった。ただ、映画物語そのものに魅了され面白かったというのとはちょっと違う。言い換えれば、とても興味深い作品だった、ということだし、さまざま考察に値する、というか。あるいは、勉強になった、と感想を結んでもいい。それは作品をけなしているわけではない。今の若い人の感性に触れて、大いに刺激的だった。
銀魂で一貫しているのは「定型」の破壊である。「暗黙の了解事項」を次々に破壊してゆく。それがコメディとして演じられるので笑って受け入られるが、実は大変な構造の崩落を目にしているのである。ブレヒトの「異化」をここまで徹底したものを目撃できることは幸運である。
学生時代、映画「旅芸人の記録」で突然俳優が観客(カメラ)に向かって語りかけるのを観て仰天したことがある。黒澤だって同じ仕掛けがあるし、赤塚不二夫も枠線を壊しそうした実験を様々試行している。しかし、実験と言えば聞こえはいいが、赤塚ギャグは苦し紛れにも見えたし、破壊はしてもそれが効果的な結実を果たしているかはまた別だ。その意味で「銀魂」はギャグコメディとして立派にその破壊が「痛快さ」に結実しているように見える。単発でなく、矢継ぎ早の破壊に次ぐ破壊であり、「異化」が羅列された文脈ではむしろ「異化」が「異化」でなくなっている。凄まじいと思う。
そして、もう一つ。この類の笑いは昔、2チャンネル辺りで好まれた揶揄と似通っている気がした。つまり、生真面目さや正論の足元をすくってその意味を無効化する、禁じ手的なやり方だ。主張したり論じたり、あるいは提起したり訴えたり、そうした「真面目な」場を構造からひっくり返して「笑い飛ばす」虚無的な作為だ。ネット深部では虚無であるが、それが大衆的になると「緊張」や「葛藤」を回避する装置となる。
それは陣営の闘争ではない。陣営であれば、より流行りで優勢な陣営に属せばいい。そうではなく、自己の内心における「葛藤」や「緊張」に耐えきれず、回避する逃げ道なのだ。自己内部だけではない。二者(対)関係における「葛藤」や「緊張」でもそうだ。耐えきれない。「葛藤」を内心でホールドする力。答えのない「問い」を抱え続ける力。そこから逃走して「安心」に逃げ込むための装置として、その構造破壊は有効に見える。
それをだからと言って否定する気はない。一回笑い飛ばして安心してからでないと、その「葛藤」や「問い」に向かい合えない時代でもあると思うからだ。
ここまで考察を提供してくれるのだから、やはり「銀魂」は第一位になるほどふさわしいのだと思う。45年前、もてない僕は「ちっちとサリー」だの「ピエロのサム」とかに、けっ!と尻を向けて、学校さぼっては東映やくざ映画を見に行っていたように、今「青春・運命の恋・涙もの」に、けっ!と尻を向けて「銀魂」で大笑いしているもてない17歳がたくさんいるのかもしれない。そう思うと、妙に愉快な気もしてくる。そうかもしれない。