オーソンウェルズ -「市民ケーン」

「市民ケーン」
名画として評価はとても高いが、正直言ってあまりピンとこない。以前冒頭で観るのをやめてしまったこともあった。NHK「映像の世紀プレミアム」で映画のモデルとなった新聞王ハーストについてその権勢がこれでもかと描かれた。映画では葛藤の中孤独に亡くなって行くが、現実のハーストは最後まで栄華を謳歌したという。興味が湧いて、改めて「市民ケーン」を見た。
観ながら、キャストとしてのケーンよりも、創作者としてのウェルズの深みを感じていた。とんでもない才能。
オーソンウェルズならシェイクスピア劇「マクベス」「リア王」の映画が印象深い。運命に翻弄される巨大な人物像は圧巻。「第三の男」で彼が演じた悪は物足りなかった。「市民ケーン」はハマリ役だ。傑出した才能の不運な行く末、まさにウェルズ自身を暗示している。
映画のシーン構成や映像演出に対する評価は分かるが、アメリカ人であればこそ分かるその魅力もあるのではないかと思った。ケーンは莫大な資産を背景にメディアを支配し揺るがぬ社会的な地位をその手にする。それは日本人が思う以上に憧れる「英雄」的な「成功」像なのではないか。さらにケーンはコミュニズムに与することはせずに、労働者の側に立ち悪徳政治家に立ち向かおうとする。しかし彼自身が資本家でもあるという矛盾をはじめから背負っているのだから、その「闘い」は我々にあまりピンとこない。でもアメリカではむしろドンピシャの「義挙」と映るのではないか。そもそも闘うためには力がいる。金の力、権威の力、等々。アメリカはそれを前提にするが、日本は闘うための力を多数による組織力であるとか覚悟など精神力そして巧妙な戦術に求めがちだし、最後にはたかが主観の産物に過ぎない「正しさ」に依拠して神風を期待するというむき出しの自己愛に転落するのが落ちだ。またケーンの闘いは徹頭徹尾個人による闘いである。日本において闘いの主体は自ずからのように集団が想定される。むしろ個人による闘いはただそれだけでスタンドプレーとして否定されがちだ。理由抜きに、一人が突出することを不快に感じる日本人のメンタリティ。それらが「市民ケーン」に対するアメリカでの高い評価が日本ではわかりにくい要因なのではないか。
それらつらつら思いながら観ていた。
ところで、その評価の高さがピンと来ない映画が他にもある。例えば「凱旋門」。先日2度目を観たが、やはりその良さがいまいち分からなかった。
どうしても物事を批判的に見てしまい視野狭窄に陥りやすい性分、つまりは独善的になりがちなので、まだ知らないその良さをやがて分かるようになりたいと思う。そう思えば楽しみだ。まだまだ、僕の知らない「良さ」の広がりがあるのだ。知っていけば世界が広がる。もっと世界を広げたい。