生死一体への郷愁

先月、ある著名な格闘技選手の母親にあたる方にお会いした。私はその方を間接的にしか知らずにいたのだが、その選手のことはよく知っていた。特に珍しい姓ではないので、その方と選手を結びつけることなどなかった。ひょんなことからその方の息子さんが格闘技をされているらしいとお聞きし、あの◯◯選手じゃないかと知ったときは仰天した。その方は息子さんがそれほどに有名なアスリートであることをまるで隠すように、ご自分からは決して明かされないのだという。しかしサッカー、野球といったメジャースポーツではない。その格闘技のファンであれば、誰もが知っている日本のトップ選手として記憶されてはいるが、しかしその格闘技に関心なければ知らされてもふーんてなもんだろう。僕はと言えば、それを知ってとても興奮した。ぜひお母さんに握手させてもらいたい、と思ったほどだ。その選手だけではない。その格闘技自身にリスペクトの心情がある。それは大袈裟でなく死を賭して試合に臨む競技であり、現在は武道とは括られていないかもしれないが、まさに武道と言ってよいものである。審判の判断が数秒遅れるだけで死や終生に及ぶ後遺症の危険を有するものだ。それだけに究極の鍛錬を長年修め研ぎ澄まされた技術と鍛え抜かれた体力と精神力で競い合うのである。一様に選手には尊敬の念を禁じ得ない。選手の母であるその方は二、三度試合を見たことはあるが、見ておれなくて、もう会場には行かれておらず、テレビで試合放映あってもご覧にはならないのだという。心情を察した。

またつい先日は、日本刀を使用する或る武道の師範の方と久しぶりにお話しをする機会を得た。なんと昇段試験に合格し七段を獲得されたのだという。これでもう大会に選手として出場することはなくなる。これまで選手として出場しながら審判もされていたが、これからは審判としての出場のみだ。まだ若い方なので、寂しさを感じるのだという。
その武道は誘われて何度か大会を見学したことがある。まったく知らない世界だったので、とても興味深くまた魅入られた。演劇の世界では殺陣の習得の一貫として抜刀術を経験することがあると聞いたことがあるが、その武道は徹底した型の鍛錬である。そして人によっては「野蛮だ」と眉をひそめることもあるだろうが、型は常に「見えない敵をそこに想定して」斬り、突くのである。大会における型演武の優劣は、曖昧な印象によるのではなく、具体的にその「見えない敵」の急所である肉体の部位を正確に寸分の狂いなく打ち振るい見事に倒す(それは殺害を意味する)刀さばきであったかどうかを技術的に判断するのである。まさに「死」を意識する世界であり、圧倒された。
ところで私は能が大好きである。金がなくて滅多に能楽堂で観劇する機会はないが、録画番組やDVDでうっとりとして楽しんでいる。また能について書き出すとキリがないので自制するが、能の静謐で張り詰めた瑞々しい場の雰囲気は、その武道の醸し出す雰囲気ととても似ているのである。武道の鍛錬法として世阿弥の花伝書を勧めているとも聞き、なるほどと思ったし、能が武士階級に好まれたというのも納得できた。

上記の格闘技にしろ、その武道にせよ、「死」を意識させる競技である。それは私たちが生活する欲望資本主義社会の中でとても奇異なものとして見えてしまう。日常において死を意識することはまるで病的なサインとまで扱われかねない現状である。しかし、私たちは生まれたときから、死に向かって生きている存在である。また、寿命によらず傷病で死に至ることも決して少なくない。だから、死を意識しない生活の方が異常に思えるし、「死」を意識するとは実は「生」を意識することである。死を意識しない分だけ、生を意識せず、ただ刹那に流されてしまっているだけのような気もする。
私は親が実際に戦地に赴き実際に戦場で戦った最後の世代にあたるのではないかと思う。家の天井裏には軍刀が隠されていた。銃刀法違反になるから隠していたのだ。手入れなどしていないから、その刃は錆びてぼろぼろになっていたのを覚えているが、それが実際に「敵」を斬り殺害した刀であるとは子供だったので想像したこともなかった。さらに言えば、父親が若き日に中国、仏印の地で何人もの人を殺害し、また戦友らを何人も亡くしたことなど、想像もできなかった。それが過酷な否応ない忍土の現実であり、生にまつわる死の拭いがたい痕跡だったのである。
だから、たとえ格闘技や武道であれ、それが死に地続きの生を際立たせるものであれば、そこに郷愁のようなものを感じずにおれないのである。決して死は一切の終焉たる漆黒の闇底ではない。恐怖すべき深淵ではない。むしろ生に心棒を打ち立て輝かせる支えではないか。そこにおいて過酷な生が豊穣な意味を孕むような気もする。そうした、死と一体の強靭な生の思想に救済を覚えるのである。