作者の死

作家がその物語に登場する人物である「私」として小説を書くとき、作家は人物に憑依され「私」となる。しかし例えば群像小説など、それぞれの登場人物が体験する主観世界を併存させて物語るときなど、作家は「私」ではなく、無主体?の超越的な人格として、よく「神の目」などとふざけ気味に称される奇妙で不可解なまなざし(それは確かに「実在界から現象界を眺める眼差し」が理想かもしれない)によって物語を叙述する。
ところで作家がエッセイやあるいは評論を描くとき(ブログもそうだ)、登場人物ではない作家としての「私」がおのずと措定される。「作家としての私」の出現である。個性あるひとつの人格像が書き手として前面に登場してしまうのである。そこで生ずる問題は「作家としての私」が物語世界を叙述しても、それは或る措定された一人の個性ある、つまり或る偏りを持った人格像が描く世界であり、それはただ「もう一人の登場人物」が語る物語にすぎなくなるのだ。
つまり、「書き手である私」までが物語に登場してしまっている滑稽な状態となる。それは意図的な戯作でなければ、小説としての破綻である。
「書き手である私」の匂いを消し去り、ただそれぞれの群像を「神の目」で叙述する、無主体?の「作家」に戻るにはどうすればよいか。
それは「作家である私として書く」ことを自らに禁ずるか、いかなる文章表現をも、個性のない無臭無主体?の「神の目」で書くことを自らに課すほかない。
或いは、昔中島みゆきがラジオDJとして明らかに作り物の「DJとしての私」を演じたように、「作家としての私が随筆を書く」のでなく、実は新たに「随筆家としての私」を措定して書く。評論家としての私、ブロガーとしての私が書くのであり、決して作家としての私としない。それは書き手の意識立ち位置眼差しの問題であり、読み手にはまったく関わりのないことではある。「作家としての私」の出現を自ら注意深く厳格にそぎ落とさねばならない。確かに、評論や随筆あるいはテレビ出演している作家は、あまり「書かなく」なっている。作家が書かなくなるとは書けなくなるということと同義ではないか。
たとえばここに書くにしても、物語を書くときの私とは明確に別物のブログ書きの私としてシフトチェンジできなければならない。でなければ本来の仕事である創作にこのブログは大きな障害となってしまうからだ。やはり、基本的には「書くためには書かないこと」だ。抜け道を体得したい。
このところ苦慮しているそうした問題意識にかかわる文章を見つけた。

インタビュー 哲学者の視点で世界を見る 中村昇 4「作者の死」
以下 引用
中村 それはありますね。私が院生の頃に出ていた読書会での話ですけど、先輩や非常勤の先生方が自分の読みを披露するじゃないですか。それを聞いて私は「いや、そこまでこの哲学者は考えてないんじゃない? 深読みなんじゃない? 」って思ってたんです。でも、自分がまさに今そういうことやってるんですよね。
 どういうことかというと、その哲学者が本当にそういうことを言いたかったのかのどうかとは関係なく、こっちが探れば探るほどいろいろな意味を見出すことができる。そういう本こそが古典なんじゃないかと思います。それはつまり作者の死ですけど、作者が死ぬのが古典だと思うんです。
 古典として生き残っているということは、いろんな時代の人たちが読んでるってことじゃないですか。それはその作者が書いた時代とは違うわけだから、明らかに違う読み方をしてるはずですよね。それでも読む価値があるってみんなが思うわけだから、やっぱり作者は確実に死んでいるんですよ。
―― 作者が本当はどう考えていたかということより、テキストそのものから一人ひとりの読み手が何を読み取るかの方が重要だと。そして、読書会はそれを共有する場なわけですね。

 インタビュー 哲学者の視点で世界を見る 中村昇 <リンク>