「安達ヶ原」

能「安達ヶ原」を見た。
以前に動画サイトで全編を見たのだが、やはり能は生舞台だ。静寂を破る笛の悲鳴のような響きに地鳴りのような謡、そして押し寄せ畳み掛けるような鼓、小鼓、太鼓の脈動に覆いかぶさる叫び喘ぎ怒声じみた囃子。すり足を軽く浮かせて舞台をドンと踏むシテの張り詰めた飽和に呑み込まれる。
久しぶりの能を満喫した。

そして物語としての「安達ヶ原」である。
これは旅の修験者が一夜の宿を求めたあばら家の老女が、人喰いの鬼女であったという筋である。
誰もが「山姥」の民話を思い出す。旅の者を食い殺す山姥の正体に気づき、旅人は逃げ出すのだ。
しかし、「安達ヶ原」は違う。
修験者は無理強いして身を寄せた老婆宅で、珍しい糸車を目にして尋ねる。それが辛い謂れの糸車と知り、修験者は老婆に実際に糸を紡いで見せてくれと所望する。老女は気乗りしないながらも、悔恨に満ちた人生を語りながら糸を紡ぐ。そして、修験者のために薪を集めに森に入って行く。
初めから訪問者を騙し食い殺さんとした山姥とは異なり、「安達ヶ原」の鬼女は修験者を泊めることも嫌がり、そして修験者に鬼として罪業の苦しみを打ち明けているのだ。
修験者がその言いつけを守りその寝屋を覗かなければ、そこに折り重なる死骸の山を見つけなければ、老女は鬼女へと姿を変えることもなかっただろう。
確かにこれは優れたサスペンスホラーであるが、鬼女が修験者に襲いかかるそもそものトリガーは、修験者の裏切りであり、自身の醜い罪業を知られた逆上である。彼女の怒り恨み、我を忘れた錯乱は何故なのだろう。
修験者の前での慎ましく健気で哀れな老女のその極端な変身、変容は何故と解すべきなのだろう。

そこでふとモームの小説を映画化した「雨」を思い出す。
刑を逃れて島へやってきた娼婦を厳格な宣教師が厳しく追い詰め信仰に導く。反発していた娘もやがて宣教師の激烈な信仰に打たれ、彼の導きに従い自ら国に帰り刑に服する道を選ぼうとする。娘の回心に誰もが奇跡を見る。そして娘が島を去る前夜、宣教師が娘に告げる。島にとどまってもよいのだと。娘は微笑んで神の望まれるまま帰国して刑に服すると答える。宣教師は、天を仰ぎ、娘の信仰は神の試しにもくじけなかったことを祝福して下さいと、ごまかす。そして、その夜宣教師は娘を襲う。朝方人々は見る。浜辺で自ら命を絶った宣教師と、煙草をくゆらし胸をはだけた派手な装いのまま濃い化粧に戻った娘の姿を。
なぜこれを「安達ヶ原」に思い出すのだろう。
自らの罪の桎梏から解放される希望を打ち砕かれた絶望と怒り。そもそもその希望は虚しい幻想であった故の結末だとしても。
「安達ヶ原」の老婆の絶望と怒り、それは修験者に裏切りを見た故でないか。あるいはそれは修験者の思いもだにしなかった、老婆にとって稀有で信じられないほどの希望を許された出会いだったのではないか。
悲しい。
怒りは悲しい。