捨てたもんじゃない

ほんの短い期間だったが、こっそり事前投票事務のバイトをした。2回目だが久しぶりに会う顔もあってちょっとした同窓会気分だ。市井の人たちの中に入るのは楽しい。立場や役割でふんぞり返っている滑稽な男たちよりも、組織や権威とはかかわりなく実は太々しく自分自身でいる女たちの方がずっと一緒にいて気持ちがいい。私が車や博打にとんと関心がなく、もう何十年も自宅で家事育児に精出してきたからなのかもしれないが。
こうした交歓は心地よい。生き返る思いがする。どこにでもいる普通の人が、実はその人だけが持っている長い人生の具体的なかけがえないいきさつや、そして日常の暮らしを懸命に、あるいは流されるままであっても刻んできた日々の尊さを、心から愛しく思う。こういう人たちの物語を書きたいな。そう思うのである。たいがいは本人たちが自分の人生や毎日のあれこれを月並みでたいした価値ないものと誤解している。違う。著名な秀でた人、名の知れた人、スペシャルな威光を放つ人、それらの人がなにがしか価値や意味を優れて持っていると誤解している人が多い。その存在の重みはまったく等価である。
心に抱える重荷や困難さをひた隠しにして笑い声をあげるのが人というものであると思えば、かたわらを通り過ぎるときでもいたわりがあればと思う。また隠しきれずやりづらさをおもてに出さざる得ず、人との関わりを負担に感じることがあっても、それもまた人というものであるはずだ。それらすべてわかった上で、普段多くを語らなくても互いに思いを寄せてあったらと思う。
先日、ある若い男性と話をした。若いと言っても30代だが。話のひょんな流れから、彼の祖父がかつて映画黄金時代を支えた著名な映画人であったと知った。たいへん驚いた。凄い人だ。しかし彼はそうも感じていない様子なのだ。「俳優じゃないですよ」と彼はいう。映画は俳優が作るものではない。そんなことあたりまえだ。映画を作るため極めて重要で必須な役割だ。それは膨大な知識と技能もいる。裏方こそ尊敬する。「最初のスタッフロールにちょろっと名前が出るだけですよ」と彼はいう。何を言うんですか、その技能において頂点だったということじゃないですか、と興奮して答えた。「こんな古い映画よく知ってますね」と彼はいう。映画のまさに黄金期だ。現在から見れば古臭く時代遅れに見えるらしいが、何を言う。国際映画祭で日本映画が次々賞を獲得し、世界で絶賛され各国の若い映画人の憧れであり目標だった日本映画である。つまり世界をリードする日本文化のトップランナーだったのだ。だから当時莫大な予算が投じられ、作家や音楽家などそれぞれの分野の最高峰が結集して作品の創造に当たったのである。彼の祖父が制作に携わった映画、監督、俳優の名を見て思わず声を上げた。彼はその著名な監督や俳優の名をそもそも知らなかった。私があまりに興奮するので、彼もようやく祖父の偉業というものを感じてきたらしい。それは十分に誇りに思っていい。誇りに思って自分も奮起したらいい。
そんなものかもしれない。ことさら自分を大きく力ある者に見せようとする醜さを知っているから、大事なものもついポイ捨てしてしまっているのかもしれない。だけではない。むしろ自分にとって恥ずかしく隠したいことも、実は尊くかけがえのないものにそのままで姿を変えることがある。決してくさるものではない。決して、捨てたもんじゃないのである。
そういう物語を書きたい。