恥知らずビワイチ宣言

 恥ってなんだろう。
 先週、自転車で琵琶湖を一周した。朝6時に家を出て、湖岸をぐるり200キロだ。帰宅したのは夜8時過ぎ。途中前夜にこしらえた弁当を食べながら一時間休んだから、13時間走り続けたことになる。もちろん所々で喉を潤したり、コンビニでトイレを借りたりはしているが、ほぼただただ走り続けたと言っていい。翌日脚が痛むのではと怖れたが、そんなこともなくホッとした。
 こう書くと、格好を決めたサイクリストを想像するかもしれないが、そんなことはない。長袖のTシャツにジャージのズボン、100均のキャップだ。そもそも自転車は変速はあるものの前カゴ付きの「シティサイクル」だ。近所のスーパーまで買い物に出かけるのと変わらない。
 私はもう65歳だ。髪はとうに真っ白だ。肉体もすこぶる貧弱である。つまり、はたから見ればまさに年寄りの冷や水、お爺さん無茶は辞めなさいとたしなめられても仕方ないのである。
 昨年は走ることができなかったが一昨年は今回と同様琵琶湖一周している。7、8年ぶりだった。実は最初に200キロを走ったのが2001年。以来ほぼ毎年恒例のように走っていた。真夏の激しい日差しの下、汗びっしょりになって走るのが心地よかった。しかし私は走るのをやめたのである。そして一昨年、再び湖岸に駆け出すまで、1日をかけ琵琶湖を周回しようとはしなかった。なぜか?それには理由がある。

 よく覚えている。湖周道路沿いにはコンビニが点在している。自転車乗りにとってはトイレを使用できる大切な休憩地点だ。それは自転車乗りに限らない。ツーリングのバイク野郎も休憩する。そしてもちろん車でドライブしている家族連れや若いカップルもコンビニをのぞくのだ。バイク野郎は精悍だ。そして車から降りてくる人たちはエアコンの効いた車内から降りてくるから、衣服も下ろしたてのように整い、まったくその肌も汗ばんでなどおらず爽やかだ。一方自転車乗りの私はと言えば全身汗びっしょりだ。日焼け止めを塗っても赤く焼けている。疲れ切ってよれよれだ。場違いと言うよりも、店内の爽やかな人たちの中に紛れると汗臭く汚れた自分が何か迷惑な存在に思えてくる。だから私はその日昼飯として「ぶっかけざるうどん」を急いで購入すると、そそくさ店外に出て駐車場を前に店の端に腰を下ろし、おもむろにうどん麺にかぶりついたのだ。疲れた空腹にそれは至福のご馳走だ。と、私は店のガラスに自分の姿が映っているのに気づいた。愕然とした。初老のホームレスが映っていた。白髪頭の年寄りだ。若者じみたシャツに半パンツは汗ばみ風に叩かれ、そして埃を存分にくぐっている。陰惨な風情だ。「50代後半にもなって、何をやってるんだ」「もう若くもないのに、なんてみっともない」「年寄りがすることじゃない」思いが駆けめぐった。醜かったのである。それを最後にもう走るのを辞めた。走る自分の姿が恥ずかしくなったのだ。
 それは55、56歳くらいだったのではないか。恥だと思った。もうこんな姿を人に、世間様に見せるものではない。そう思ったのだ。
 それから私はさらに年齢を重ねた。還暦を過ぎ、もう四捨五入すれば70だ。ここ数年、肉体はがくんと機能低下した。重いものが持てない。目はいつも二重に霞んでいる。身体だけではない。歳をとるごとに痛切に実感が高まるものがある。死である。
 人はやがて死ぬ。今から思えば、その事実をそれまでまったく知らなかったに等しい。人は誕生したその日から死に向かって生き始めるのだということを、とんと理解ができていなかったのである。それを知るとあらゆる発想が逆転する。一切に先立って考慮すべき事項なのだ。だから、すべての発想はこう始まる。「生きているうちに」
 私が小説を書く動機もこの一点に集約される。生きているうちに。もうカウントダウンが始まっているからだ。いや、生まれたときから始まっていたカウントダウンに、今頃になって気がついたのだ。
 そうするといつのまにか消えているのだ。たとえば、モテたい、とかいう気持ち。私はどう恰好をつけたところでモテる部類の人間ではない。だから恰好など気にしない。しかしそれは上辺の振りだけだ。どうせモテないなら恰好をつけても惨めなだけだから、頓着しない振りをしてそれが習慣化しただけだ。さもしい下心がなくなったから、それがよくわかるのである。
 だから、年寄りのくせにみっともない、などどうでもよいことだ。こっちは残り時間が限られている。生まれてきた理由を存分に果たし切ることだけが何より重大で、ほかのことはどうだっていい。
 ばかばかしい。みっともなかろうが、余計なお世話だ。こっちはそれどこでない。走りたいのだ。
 そうしてまた琵琶湖一周走り出したというわけである。

 生きる時間を生き抜くよ。これは安吾の言葉だ。get it while you can. これはジャニス。使えるだけ命使い果たせばいい。そしてこれは友部正人だ。十代の頃散々愛着したそれらの言葉が、まったく違う意味合いで今の私を衝き動かし煽動する。
 生まれる前にこれを果たすと誓ったこと。そのためにこの世にやってきたという、そのこと。それを果たすまでは死んでも死にきれない。それでも死は確実に一日一日私に近づき迫ってくる。
 だから、恥知らずで結構。悪いが走らせてもらう。