「ペンで闘う」

もう何十年も前のことだが、僕が高校四年生の時のこと。新聞部の友人Yが高校文化祭で内密理に特別展示を準備していた。僕らの友人が犯した殺人事件についてのパネル展示だ。タブーとされていることに反発し、事件は僕ら自身の問題だ、と語り合っていた。開放し一般の来場者もある文化祭の当日、公開するや否や新聞部展示教室は驚いた教師らによって閉鎖され、Yは職員室だか、生徒指導部だかに連れて行かれ、案の定「厳しい指導」を終日受ける羽目となり、ようやく解放されたのは文化祭が終わりもう夕刻となってからだった。別人のようにげっそりとして、彼は溜まり場になっていた近くの下宿に現れた。その時、どういう言葉を交わしたのかもう思い出せない。ただ、彼が背を丸くしてボロボロと涙を流しながら「俺はペンで闘う。俺はペンで闘う」と呻くように繰り返していたその姿が忘れられない。怒りや屈辱、そしておそらく恥や恐怖のないまぜとなった涙はその場にいた者には容易に共感できるものであったと思う。彼は早稲田に進んだ。

これはもう遥かな記憶の彼方の出来事なので、幾つかの断片が前後乱れ合成されてしまったものかもしれない。書きながら、文化祭当日はその生々しい顛末を聞いただけで、彼が「ペンで闘う」と繰り返したのは早稲田の新聞専攻に合格したあとに件の下宿で集まっていたときのような気もしてきた。あてにならない。
しかし、それよりも彼が言った「ペンで闘う」という言葉についてなのだ。僕は当時から書くことでようやく生きながらえていたが、「ペンで闘う」などということはまったくピンと来ない何か着飾った空虚な言葉としか感じていなかったので、疑いもなく真剣にそう語る彼のことがしっかり記憶に残ったのだ。
ペンは詩を書くためのものであり、当時僕には闘うという言葉からは覆面ヘルメットしか考えられなかった。
そして何十年も経って、もう老人となってしまってから、急に「ペンで闘う」という言葉を自分ごととして理解したのだ。
つまり、組織や勢力や多数や権威、暴力から自立して生きるというとき、「書く」という一点に依拠するということだ。高尚めいた精神性からびた臭く生臭い現実まで、自分の筆一本に依拠するということだ。覚悟であり誇りであり、宿命にそれは似たいわゆる自業である。私は自分の筆によってしか自分を守らない、一切の根拠を筆に賭けるという断念であり自己宣告だ。
Yは当時新聞部の部長だった記憶がある。私は正式に入部してもいないのに文芸部のメンバーであった。Yが教師たちに取り囲まれて罵倒され、当時のことだから何発かは殴られたのではないかと思う、そのとき、文芸部は全校生徒を前に「盲いた良識」という劇を演じていた。それは、僕が生まれて初めて書いた脚本シナリオだ。

今日は「航路」の初日だ。
僕はシナリオ塾のための映画脚本を仕上げるために、マクドにいる。