BS世界のドキュメンタリー「ハリウッド発#MeToo」2018

#MeToo運動を題材とした海外ドキュメンタリー番組を見た。昨年、ハリウッドの有力プロデューサーが積年重ねていたセクハラ、レイプを被害者自身が告発する運動の発端からその経緯、波及について、インタビューで構成した見応えのある番組だ。
私は男性である。だから女性が性にまつわる出来事から受けるダメージについては理解することができない。そう断言するのは、女性からそうした心的ダメージの相談を受ける立場にあった体験から、いわゆる夫の浮気が妻に与える深刻な打撃について内心驚いた経験がたびたびあり、また過去男性から受けた猥褻行為やハラスメントなど性暴力によって癒しようのない心的傷害を受けた人たちと出会った体験による。それはやはりどれほどに理解したつもりになったとしても、やはり男性には理解しようのないものが残る。そもそもの当事者性において性差は決定的である。
ただ回路としてこちらが共振するのは、「圧倒的な無力感」についてである。これは差別というものの一般的様相でもある。
つまり、番組において強調されていたのは、セクハラ、レイプを重ねていたプロデューサーの圧倒的な権力についてである。社会的権威や実際の具体的権限においてあまりにも強力で、動かす経済力はもちろん有力な政治家との繋がりやいつでも動員できる弁護士やマスメディアを保有している。その巨大で盤石な城に対峙したとき、一人の女が被害の事実を明かそうとしても、ただ跡形なく叩き潰されるしかない、そういう決定的な力関係。今回たとえば20年以上前の出来事が様々明るみに出されたのは、そのためである。言えなかったのだし、沈黙するしかなかったからである。
事実を述べようとも、権力を有する者がそんなことはないと述べればそれが事実とされ、事実は変えられるのである。つまり、事実を捏造する権限、嘘を平然と述べる権限を付与されているのである。
もちろんはたから見て事実に争いがある場合もある。ここで取り上げるのは、本当は事実がどこにあるか互いに知っており、どちらが嘘をついているのか分かっていながら、虚偽を真実とする権限についてなのである。
この無力感は凄まじい。この世界は、事実が虚偽とされ、虚偽を事実とされる仕組みを保有しているということである。真実などどこにもないと虚無主義から利己と拝金と物神が現れようし、事実が事実ではないことから精神的な混乱を根底に宿してしまう。不幸である。ここでいう事実とは、被害の事実である。いかに被害受けても、被害と認められない世界である。これが、差別による社会だ。
ここに自浄能力、自己改革の能力はまず生まれにくい。差別による圧倒的力関係、支配の関係はそれとして安定し強固に保持されるからだ。その関係にそぐわない要素を日々排除して除去しようとする。
MeToo運動の発端は新聞である。これまでに何度か記事がひねり潰された経験から、具体的な当事者の証言で告発した。もちろん当初においてはそれらの証言は虚偽であると言下に否定され、告発者の評判やイメージを損なう私生活の醜聞がことさらまことしやかに新聞週刊誌で暴きたてられるお決まりの経過を見せる。ここまでは、アメリカだけでなくどこの国もまったく同じだ。まさにデジャヴである。
今回その様相が異なったのは、具体的な当事者の告発が連鎖して登場したことだ。声を上げる者は必ず叩かれる。ことに相手が強力な社会的権力を有しておれば、告発者は取り返しのつかない打撃を受ける。それが本人にとどまらず家族親戚に及び、たとえば我が国であればそうした単独による行動は生理的に嫌悪され、なぜか「皆が迷惑する」と総バッシングを受け抹殺されがちである。だから、被害者自身がそれでもと自ら声を上げたなら、それが一人でなく、さらに別の一人へ、もう別の一人へと連続したならば、それが今回の様相だ。その当初における話にならないほどの圧倒的な力の差が、少しずつ揺らぎ始める。その揺らぎを見て、初めてその被害者による告発の連鎖つまりMeToo運動の意味と力が浸透し、高揚へと押しやった。その経緯が生々しく描かれている。
アカデミー賞授賞式で女性たちが全員MeToo運動への賛意を表す黒のドレスで現れる光景は圧巻であり、そしてナタリーポートマンの言葉が偉大である。監督賞ノミネートは男性ばかりであったと言葉を添えたのだ。つまり、男性の方がその能力があるという神話を追撃して見せたのだ。痛烈であるし、MeToo運動が提示したものは、そのプロデューサー個人に由来する事態というだけでなく、その関係や構造にこそ異様で奇怪な根拠のない差別が存在しこうした事態を生み出してきたことを明るみに出したのである。
番組の最後は「明日は我が身」である沢山の男性たちや、これは決してショービジネスに限ったものではないことが示唆されて終わる。
MeToo運動はそれから各国に波及した。一方で運動を批判する動きも見られたが、その意義までも否定されることはなかった。アジアにおいては確か韓国においてMeToo運動が高まった。しかし、日本においてはほとんどスルーされ、無視された。先立って自ら声をあげた女性は激しいバッシングに晒されその発言の機会すら十分与えられず葬り去られようとしている。
日本は震災以降権威によって反対者を排撃し強力な権力による一体性を強化する社会へとさらに変容してきたために、まさにMeToo運動の萌芽が踏みにじられる傾向はあったにしても、ウーマンリブを生み出した日本独自の女性解放運動の根強さは男性主導による革新運動の様々な挫折を見ても、驚嘆すべきものである。その揺るぎない潮流については、またMeToo運動を媒介としてその姿や主張を掲げるだろう。だから男の側からの営みによる作用をまた自問し選び取りたいと思うのである。