「惡の華」と「稲中卓球部」

男魂の舞台映像を観たせいで、「惡の華」を別なアングルから見ることができるのではないかと思った。先に書いたように、「惡の華」は暗く荒涼とした鬱の世界が描かれている。しかし、悲劇は喜劇でもある。それは描き方次第。だから男魂作品は喜劇と悲劇が折り重なってひとつの世界を堪能させる。
「惡の華」は思春期の倒錯的性衝動がはじめのテーマだ。これを喜劇と描けばどうなるか。そう思ったとき、思い浮かんだのは「稲中卓球部」だ。同じ世界を鬱で描くか、笑いで描くか。その違いだけで、実は同じ現実事態を描いているのではないか。しかし「稲中」はずっと昔に立ち読みした程度の印象だけで、実はしっかり読んではいない。そこで近くのブックオフに行ってみた。
数冊のページをめくり、やはり想像のとおり「惡の華」と同じだ。思春期の性衝動が引き起こすドタバタを滑稽に描いている。その「ドタバタ」が「惡の華」では「事件」として、「深刻に」描かれているのだ。作家の主観が異なるだけであって対象とする現実の事態は同一である。
これは「惡の華」で描かれた深刻世界も実は「稲中卓球部」に過ぎなかったんだ、と笑い飛ばそうということではない。逆に、「稲中卓球部」は「惡の華」に描かれたと同様の深刻な思春期性葛藤を描いたものだとも言えるからだ。
ブックオフで書棚を眺めていてふと思い出した。「惡の華」では、少年が水泳授業の更衣室に侵入しクラスの全女生徒のパンツを盗み出す暗いシーンがある。デジャヴである。「らんま1/2」というはちゃめちゃギャグ漫画があった。アニメを毎週家族で見ていたのだが、八宝菜という拳法達人のおじいちゃんの趣味が下着泥棒であった。ベランダの物干しから更衣室、若い女性のパンツ集めに精出している。「ワシの大切なコレクション」だと言って大量のパンツを部屋に並べて喜んでいる。「惡の華」では少年が盗んだ女生徒たちの下着を、仲間の少女と二人だけの秘密基地に万国旗(もう殆ど目にしないが)のように飾る異様な世界を現出させる。
一方は家族で楽しめる明るい笑いであり、他方は暗く希望のない孤独な倒錯である。その二つの世界の差は、ファンタジーと現実という違いだと通常は理解する。想像に止まれば健康の範疇だが、それを実際の行動に移せば病理だという風に。しかし、それはまったく同一の行動、現れた事態を描いたものなのだ。この強烈な落差はどうか。
コメディギャグは暗黙の了解としてこれはファンタジー(幻想)ですと知らせている。一方押見作品はこれは現実を描いた物語ですと強調している。これがひとつ喜劇性悲劇性を際立たせる仕掛けのひとつであるかもしれない。作家が描こうとする対象のビジョンは同一なのだから。
ところで「稲中卓球部」を手にしてまた思い出したが、作者でおる古谷実はこの後それまでの作風とは対極の「ヒミズ」「ヒメアノール」という陰惨な作品を生み出して行く。作家の中では「稲中卓球部」と「ヒメアノール」がひそかに通底していたのではないか。これは「少年アシベ」と「大阪ハムレット」についても言える。興味深い。
ブックオフでは押見修造の「ぼくは麻理のなか」も二巻を購入した。月並みな男女入れ替わりとりかえばや物語かと思ったが、決してそれでは済まない危険な深淵にはまって行く物語のようである。押見修造、すごい作家である。