メモ ありふれた営みを圧倒的深みで描き出すこと

描く対象は人間であり生である。そしてどのような人間を、どのような人生を描くか、というテーマの選定が、すでに「事態」と「受け止め」という別物の要素が巧妙に絡み合って混乱を生じさせる。外界の事態に対する内界による受け止めつまり認識の有り様はまさに主観に存する。人によってその外界についての認識は異なり、逆に言えば、事態はそれぞれの主観による産物に過ぎないということになる。だから、外界の絶対的事態は神によってしか語りえないことになる。どれほどに客観を装うとも、どこまで行ってもそれは主観に縛られるからだ。そして神にはせいぜい憧れを抱くしか許されない人の世の人の子にとって許された唯一の絶対性は主観世界ということになる。そのような事態をそのように受け止めることが、他者と異なり、あるいは偏りであるとか異常であるとか評されようとも、その主体によっての絶対性ということだ。哀しくもその峻厳たる事実を受け止めねばならない。
そして語り手もまたそれら物語の中で繰り広げられる事態と受け止めの夥しい錯綜と連鎖という大きな事態(小さな事態の塊)をその語り手らしい受け止めによって語ることになる。はからずもこぼれ落ちるおのれの主観を作家があえてさらけ出すか、出来得る限り注意深く主観を排し事実の叙述を自らに厳しく課するか。それが作家としての個性への歩み出しとなる。
人の子の痛みとその尊厳を書き表すことは、隠されている神の気配を明らかな光として具現する使命の発動にほかならない。人の子の過ちに限りない愛情と畏敬を以て書き記すこと。現し世の生は決してただそのための成功や栄光、享楽のためでなく、これもまたやがての帰還のための尊くはかない旅程に過ぎないこと。魂の眼差し。
ならば一切が物語として語られることを待っているかけがえない一瞬であることを深く知悉していることこそ作家の所以であると言わねばならない。あらゆる事態に、驚きおののき怒り哀しみ、魂への哀惜と畏敬、おおいなる神への賛美を伴う者でなければならない。まずその書き手自身の魂感覚を研ぎ澄まされていることが前提となるのである。
でなければ、魂という言葉を使わずに魂を描き、神という言葉を使わずに神を描き、それを確かに伝えることなどできないことを刻むべきだ。
まだ、人しか書けていない。