魂として

古い作家たちのインタビュー映像をyoutubeに見つけた。伊藤整が進行役となって、三島由紀夫を交え鼎談形式で川端康成にノーベル賞受賞を記念してインタビューする映像があり、とても興味深かった。川端ははなから正面きって自作を語る気はない様子だが、川端作品それぞれやまた作風に対し三島と伊藤整が率直に印象や評価を述べている。これはさすがに作家同士ならでは。とても中身が濃い。
また谷崎が芥川について語る音声記録もあった。谷崎は作家としては巨人であろうが、作品に漂う耽美の風情が個人的にはあまり好きでない。しかしその肉声の語り口や内容から受ける印象は、やはり作品の風とは明らかに隔たっている。あくまでそのペン先から作品を生み出しているのだ。創造者だ。こういう作家を前にすると、自身の人格を切り売りするような作品はスケール感がいかにもお粗末に見えてくる。
三島が記者(らしい)の問いに答えるインタビューもあったが、太宰について語っているのだ。三島の太宰嫌いが実は自身に対する嫌悪に由来することを告白している。そしてその才については惜しまず賞賛しているのだ。面白い。しかし、本質を外した物足りない記者の質問に対しては、適当に口で答えているような印象だ。どうせ理解できないだろうから、この程度でごまかしても案の定簡単に煙に巻かれる、胎の中でそう呟いている気がした。
ついでに、三島と東大全共闘の討論の記録も見た。これは学生側が例の通り、それを共有し合う者同士にしか通じにくい難解で硬質な言語と概念をまくしたてる、という印象があったので真面目に見たことはなかった。今回、しっかりと見てみたのだが、三島は天才的作家というよりも、それよりひと回りも二回りも小さい言わば気鋭の一右翼運動家としての発言に終始している印象で惜しい。三島は作品に対する作家の態度について自覚的であったと思われるが、やはり作品次元、創造次元に巻き込まれ倒れて行ったという点では作家として太宰と共通する部分を認めざる得ないのではないか。
そこでふと思い起こしたのが、文学界隈の人々への違和感についてだ。実は、なんともその場にいると居心地がすこぶる悪い。言わば同好の士なのだから安心を覚えていいはずなのに、この人たちとは親密になれないと感じてしまう。その違和感を言い表すのは難しいのだが、言葉にすれば、あまりに観念的すぎると言うか、社会世間の只中で格闘する生々しさと清々しさが感じられない。そしてやはり社会問題にコミットしている人々への恋しさが募るのである。よっぽどジャーナリスト、なんらかの社会的現場での実践者たちの方がずっと「気が合う」のである。
沖縄辺野古で逮捕された芥川賞作家がいた。その作品も読んでいないし、どういう作家なのか知らない。ところが、日本ペンクラブという権威団体を代表して著名なストーリーテラーである作家がコメントを出し、その作家を批判した。作家はあくまでもペンで闘うべきだ。実際の運動にコミットするような行動はいかがなものか、と言うのである。ひどく落胆した。えげつない言い方をすれば、馬脚を現した、と言いたくなった。つまり、行動することと書くことは背反していると言いたいのだ。そんな馬鹿なことはない。一切は、書くためであり、行動も書くためであり、書くことと同義の行動だってある。一切は作家の文学的昇華のための生きるという実践でありそれがときに逸脱の性を帯びても、必ず優れた文学に結晶されると信ずると、どうして擁護しないのか。何か体制から指弾される者があらわれたら、何よりもまずさきに「私(たち)はあいつ(ら)とは無関係です」「一味ではありません」と大声あげて攻撃を避ける。そういうさもしい保身、びびりを感じるのだ。これが、何か文学界隈にたちの悪い遺伝子としてはびこっている気がする。
そう思えば、作品に対する自身の態度を自覚的に意識した作家たちはその遺伝子に抗った姿なのかも知れない。社会的な活動と書くことを一体化せしめる道を尋ねてよいのかも知れないとひそかに思ったりするのである。
例えば太宰や三島をただ一人の人として見ればその人生は破綻であり破滅であったとしても、作品を生み出すために今生のいのちを得たのであれば、長い転生の眼差しからそれは本望であったかもしれないと思う。そのために生まれたのであるから、それを果たすことが一切よりも優先されるからだ。しかし、人はいかに作家であるよりも前に一人の人である、という箴言も心に突き刺さる。だからそこで私はわからなくなる。
それでも、ただこの世で言う成功であるとか幸福とされるものは大概疑ってかかっていいのだと思う。この世で幸福になるために生まれたのであれば、死ほどの不幸はない。この世の幸福は死で切断され終焉するからだ。生まれる以前があり、死してその後があるという魂の眼差しならばどうか。
いよいよ明日でこの一年が終わる。連綿と続く日々の営みを大きく区切る年越しである。ともかくは蕎麦である。蕎麦を食ってから考えたい。魂としての歩みを深めるということ。