酷く喉をやられ寝込んでいた。信じられないほど、爆睡したのだが、何度も明細な夢を見た。長くリアルな余韻が残る夢だ。
それはキリスト教の学校であった。学友は年齢も様々で男性もあれば女性もある。信仰を基いとした一般教育機関ではなく、信仰を学び体得するための学校であり、信仰の深度到達度による位階のより上位を目指し、学ぶのである。不思議だがカソリックもプロテスタントも混在する学校であった。中に一人歳も近く親しい男友があった。信心浅く、まだ素人風情の私とは異なり、信仰が人生そのものであり、信仰が精神のまったく中心の軸となっているいかにも堂々として溌剌とした青年であった。いつも彼と机を並べて学ぶのであるが、私は信仰の全てにおいて彼に劣ることをコンプレックスと感じている。しかし彼は偉ぶる態度もなく、慎み深くあらゆる点で尊敬に値するのだ。彼に従僕のように従っている年長の女性に彼の信仰の位を尋ねたところ、私とは雲泥の高位であった。なるほどと私は納得した。その女性も私の襟章から私の低い位を知り納得した様子であった。しかしだ。どうにも彼に対して違和感のようなものを私は感ずるのだ。決して反感といった情緒的反応ではない。その真摯で清廉、誠実で努力家な彼にどうしても相容れないようなものを私は感じている。これはなんだろう。何が、違うのだろう。私は思っていた。そして、ふっと気づいた。彼は、信仰のない人々に対して自らを優位に置いているのだ。露骨ではない。あからさまではない。しかし、折々時々匂うようにそれが漏れるのだ。信仰ない者に対して、線を引き、私は特別だとしている。かすかなその優位の意識のおおもとは、蔑みである。もともと信仰は差別の意識と最も離れたものであるはずだ。自らを高みにおいて人を蔑むなど、最も信仰と真逆な態度であるはずだ。しかし、信仰において努力することが、一方で自らを特別な者と意識させることと分かち難く一体となっていることを、避けられないのだろうか。ならば、私はそれほど彼のように高い信仰の位階に達さなくてもよいな、と思った。また、彼はさらに精進してそうした特別意識を克服して新しい深みのある境地に達するのかもしれない。それはぼんやりとしている私には到達できない高みなのだろうと何気なく私は思っていたのである。
リアルな夢は、小説やドラマを観る以上に生々しい。それは読むのでも観るのでもなく、その渦中に自分が参画して体験するものだからだ。ところで、私はキリスト教徒ではない。深層意識の不可思議を思う。