ロン・ハワード – 「ハン・ソロ」2018

「ハンソロ」を早速観た。
前回のスターウォーズ作品「最後のジェダイ」を観て、正直なところがっかりした。もともと私が映画「スターウォーズ」に惹かれていた要素がことごとく裏切られたからだ。たとえば、人間や地球が宇宙の中でごく一部を占めるだけの one of them に過ぎないということをくどくどしい説明なしに味わわせてくれるその世界(宇宙)観の爽快さ、古典的な光と闇の相克という精神性のテーマ、娯楽映画なりの斬新なリアリティといったものだ。ところが「最後のジェダイ」では、風景も「地球のどこかにある秘境」としか見えなかったし、世界を動かす主たる生物は当然のように人間であった。決定的だったのは、破壊された宇宙船が重力もない宇宙でそれぞれ「墜落」「沈没」してゆく奇怪な光景だ。宇宙空間で船団が痛手を負い次々落下して視界から消えてゆくという様子には目を疑った。思わず「冗談だろ」と声を上げそうになった。さらに、壊滅的な大敗北を喫しながらも、全く根拠のない希望が共有されるエンディングには、むしろ現実否認の「虚無」や「妄想」すら感じてひどく不快だった。
だから、「ハンソロ」にはさほど期待してはいなかった。
結論から言えば、「ハンソロ」は面白かった。楽しめた、と言った方がよいか。「最後の–」のせいで、自分からハードルをずいぶん下げてはいた。せっかくお金を払うのに、観た後損したとは思いたくない。
それでもやはり記したい。主人公のハンソロ。顔も気配も「アウトロー」からは程遠い。無法者を気取って語るほどにシラケる。ディズニーのちょっとしたやんちゃキャラではないか。裏切りや打算に淫するアウトローが内心の深くに秘めている亀裂や愉楽の毒々しいカオスが皆無なのだ。これは人間観の浅さと言っていい。まだ年若い時代なのだからという言い訳は無効だ。なぜなら大人になって全身から溢れる毒気はすでに青年少年時代にまた別の形の捻じれや軋みとしてすでに宿され現れているからだ。ハリソンフォード演じるハンソロはそうした内心をコールタールの如き闇におおわれていたところに、もはや遠い昔に忘れ去った、人を信じるとか人の力になるとかいう善意を自ら酔狂と冷笑しつつも深奥から取り戻す姿だ。今回のハンソロはスタイルとしてのアウトローを気取るいけ好かない狡猾な小市民の若造という印象だ。
でも、まあいい。それはディズニーには求められないものなのだろう。裏社会、闇社会を渡り歩くアウトローを精一杯子供向けに翻訳した結果と言えなくもない。
あと、もう一つ。ミレニアムファルコン内の表示ランプボタンの「赤」。きれいすぎる。使い込まれていないピカピカの未使用品の輝きだ。平成以降の太平洋戦争映画の軍服軍靴の下ろしたてのようなピカピカ具合のシラケ感と同じ。洗いざらし、わずかなほつれ、色あせ、その上でよく手入れされているのが将校の服なのだ。いつでも仕立てたばかし、買ったばかし、クリーニングしたばかしのピカピカの新品ではダメだ。つくりものすぎる。だから、キャスト自体が使用感なく浮ついている。しっかりとした心棒が感じられない。つまり、人間が伝わらない。ミレニアムファルコンが抱えてきた、関わる者の血と汗と絶望と興奮と憎しみと悦楽、空虚と戦慄が伝わらない。ゲームセンターのシミュレータでしかない。
しかしどうしてだろう。初期スターウォーズも徹頭徹尾娯楽を提供する究極のエンタテインメント作品でありながら、人間観やリアリティにおいて、これっぽっちも不満を感じさせない。やはり作り手、ルーカスの映画作家としての実力なのだろう。それは「椿三十郎」や「用心棒」が最高のエンタテインメント作品であることと同じだ。その並びで語られるべきなのだろう。
物語に生々しい感触を込めること。息遣い、体温、体臭、その場の気温、湿度、風の強さ、時刻と季節。人間ならその人物がたどってきた語り切れない来歴の巨大な堆積に連なるこのとき。もっともっとリアルを描けるようになろう。「ハンソロ」のおかげで、またそう思ったよ。