トンネル抜けて

夢を持とう。
という言葉を目にすることがある。例えば、若者へのメッセージとか。
それはつまり「今の若者は夢を持っていない」という認識が前提としてあり、「それでいいのか」という幾分かの不満であるとか「かわいそうだ」と憐み残念に思う心情とかがあるのだろう。
ところで、僕は「夢」を持ったことがない。だから、そういう「応援」の類に、内心「余計なお世話だよな」と思ってしまう。
それを口にすると、何かいかにも虚無的な態度と受け止められるが、そんなことはない。夢ではなく、目標や目的というなら僕も喜んで同意する。夢にはどことなく「叶うことはなくても」というニュアンスを含んでいる。必ず実現させるという意志や覚悟を秘めて「夢」を見るならいいが、ただ虚しく空想に身をやつすのであるならどうなのだろう。非現実的な慰撫のための夢なら、それが希望として精神に力を与えることもないのではないか。
しかし、あまりに大きく深刻な痛手を負っているとき、絶望が力を奪い生存への意欲すら消えかかっているときであるなら、話は別だ。実現できるかどうかなどどうでもいい。まさに慰撫をこそ必要としている。現実が苛烈な拷問にすぎなくなっている、いっときでも非現実に逃れて正気を取り戻すことが必要だ。モルヒネとしての夢。
先日、小説家になることが若い頃からの夢だったのですか、と問われた。即座に否定し、叶わないとはなからあきらめた遥かな憧れにすぎなかったから、と答えたが、それを夢と言っていいのではないかと返された。そうかもしれない。今はもう残り時間を気にするまで歳を取ったが、かつて虚しい空想のシェルターに身を隠してどうにか生き延びようと日々にあえいできたこともあったのではなかったか。
昭和じみた「若者よ、夢を持とう」というセリフには、ただこう返せばいい。「ならばせめて夢の邪魔をしないでくれよ」そうして闘うことだ。
「カメラを止めるな」上映たった2館から始まり、爆発的に話題を呼んでいる。目撃したい。