小説販売行脚

盛岡での文学フリマでは、予想もしなかったことがいくつかあった。開始早々に私の小説を買うために初めてこのイベントにやってきました、という方が見えられ、とても驚いた。私の地元は関西であるし、あと私が懇意にさせていただいている劇団を通じてかとも思ったが劇団のフィールドは東京である。前日に盛岡の大きな書店で見本誌の展示があったことを思い出し尋ねたが、ブログも読みましたとおっしゃる。本当に驚いた。二冊私の小説を購入していただいた。
こう書くと思い上がりのようだが、私の小説を実際に読んでもらった人からの評判はすこぶるにいい。だから、ともかくまず手にとって実際に読んでもらいさえすれば、と自負している。これは文学通でなく、一般の読者からの評価としてだ。
私の小説には設定の奇抜さもないし、実はよくある、或いはあり得る話だ。そのためということもあろうが、まったくの創作話なのに実話の小説化であるとはなから決めつけられ、それを前提に評されたりした。だから「事実の強み」などと的外れな褒められ方をして心外な思いを抱くこともあった。必死に呻吟しながら生み出した創作話をそれ実体験をもとになどと扱われたら、なんだよ、と癪にもなる。よくわからないが、そもそもの書き方がどこか違うのだろう。トレンドはもちろん、オーソドックスな文学から外れているのかもしれない。
だから努力はし続けるが、そういう文芸世界から評価されることは相当困難だろうとも思っている。だからこそ「別ルート」からの読者開拓を切望しているのだ。読まれてなんぼの世界。読者のいない作品など意味がない。文学フリマに出かけたのもそのためだ。自分で読者ネットワークを開拓しようと、実はそういうことなのだ。
本来は作家がやることではない。きちんとその価値ありと出版社なりに認められれば、そしてプッシュされたらその販売戦略から宣伝展開されるのだろう。それはわかっているのだが。
それで冒頭の購入者。あとで知ったのだが、岩手の方ではなかった。ずっと遠くの方だ。本当に驚いた。購入のためにわざわざ300キロも離れた地に赴いてくださったのだ。私の小説を目当てに出かけたとお聞きし、信じられない思いがした。また文学フリマでは一冊を購入されたあとでもう一度来場され、とても面白いので他の作品も買っておきたいとさらに購入された方があった。それだけでもうれしいが、その後に丁寧な感想と一緒にもっと別の作品も読みたいと連絡があった。すこぶる励まされた。
私の小説は現在書店流通しているものはない。先に刊行したものも出版社が消えてww、絶版である。しかし、もし他社から出版されたとしても書店に並ぶことはまず期待できないだろう。各書店にはそれぞれ出版社ごとに割り当てられたスペースがあり、その中に割り込むなんてもともと著名であるか、賞や話題を得ていないとほぼ無理だ。私の小説を一読して編集者が動くという夢物語も期待できそうにない。こうした書店の硬直した動向の背景には深刻な出版不況がある。以前は書店が気に入れば売り出そうと書籍を推したこともあったというが、今やほとんどあり得ないという。それは書籍が売れた時代の話なのだ。先日、出版社の社長が気に入らない作家の実売数を暴露して叩かれたとおり、一握りのベストセラー作家以外驚くほどに書籍は売れない。むしろ売れるのはコンビニ本なのだ。毎年誕生している有名文学賞の受賞者すら多くがそのままフェイドアウトする死屍累々の世界だ。だから書店が「売れる本」を第一に優先して置く、というのはあらかじめ観客動員が見込めるヒット漫画やテレビ番組或いは人気アイドルに映画産業が頼っているのと同様だ。それを突破できる力を手に入れるしかないのだが、それは途方も無いことだ。書籍で持つ武器は具体的な作品評価より他ない。編集者がダメならばと、そのための草の根、読者ネットワーク開拓なのだ。
本陣に向かうため、遊説してまわっていると喩えられるか。文学フリマはそのための行脚だ。ともかくメジャー級の賞にくさらず挑み続けるためにも、これからも比較的規模の小さい賞を獲得して実績としつつ、中央への進撃に向けて具体的な読者獲得に行脚し続けたい。SNSの利用法がいつまでたっても呑み込めないのは致命傷かもしれないが、まあここから行くほかない。勝算はまだ見えないが。