母なる原像の欠損

 ずっと気になっていることがある。発端は江藤淳の「成熟と喪失 ”母”の崩壊」だ。その副題が示す通り、当時第三の新人と呼ばれた安岡章太郎や小島信夫らの作品を読み解き、「母」が崩壊し喪失することによって果たされる戦後社会における成熟の可能性を鮮やかに抉り出した名著だ。しかし私が衝撃を受けたのは、ただ本論のためでなく文庫版に併録された上野千鶴子の解説によってだ。もはや上野にとっては自明の前提だからくどくどしく指摘してはいないが、ここで江藤が語っているのは最初から最後まで「男(息子)にとっての母」にすぎない。その点をもって江藤の論をくさしたり非難しているわけではない。上野にとって、時代の自画像としてあまりに正確でかえって目を背けたいほど「涙なしに読めない」とまで述べている。だからこそなのだ。私も論が鮮やかに小説から隈取り描き出す日本における母性と父性、そして男女夫婦の有り様にぐいぐいと惹きつけられ目を開かされた。だからこそなのである。こんなにも明晰に根源や普遍に接近しているーと思われるーのに、それは明らかに「男」からの視点でしかないのである。つまり「母」という原像とされるものが、「人=男+女」にとってのそれでなく、まったく無自覚に「男」にとっての「母」にすぎないということだ。
 一方、これは驚くに値しない。ずっと以前にこのブログでも書いたが、たとえば1974年発刊の「純愛小説名作編」という文庫に編者の吉行淳之介と長谷部日出雄が「純愛とは何か」と題した対談解説がある。そこで二人が結論めいた言い回しで盛り上がっているのが「純愛とは精神的怒張である」という言葉だ。最近はほとんど目にしないが、怒張とは男性器の勃起の意だ。つまり語られている「純愛」はまったく無自覚に「男性にとって」の純愛だけなのである。それどころか、ここに収められている短編小説群の主人公はもちろん、その焦点もほとんどが恋愛に際しての男性の心理と行動ばかりである。能動的主体として恋愛に向かう女性が現れないだけでなく、主体である男性の「対象としての女性」にすら主婦など「普通の女性」ははじめから含まれていない。そういう時代だ。
 BOB DYLANに”Just like a woman”という歌がある。その歌詞に魅入られ、私は高校時代なんども訳詩を試みた。”She takes just like a woman. She makes love just like a woman. She aches just like a woman. But She breaks just like a little girl.” 彼女はまるでwomanのようにtakeしmakes loveしacheするが、しかしlittle girlのようにbreakしてしまう。take,make,acheにbreakまで韻を踏みながら、魅力的なその女性像を描き出す。なんとか日本語化しようとしたが困ったのは”She makes love”のくだりだ。これは抽象的な愛ではなく、SEX行為を表現する言葉だと知ってはいた。しかし女性の能動態として性行為をあらわす言葉が見当たらないのだ。「抱く」これはハグでなく、性行為を伴う意味で使われるが、もっぱら男性の能動態であって、女性では受動態(受け身)でしか使われない。男は女を「抱く」のであり、女は男に「抱かれる」のである。他にそうした行為を含む言葉は「寝る」くらいしか思いつかず到底この詩の訳には合わない。女性が主体ではなく、あくまで受け身の対象とされる日本語の不自由さが悔しくてならなかった。DYLAN訳の一人者である片桐ユズルも困ったのだろう「股を開く」などと訳している。
 だから、1967年に発表されたこの評論で江藤が「日本人にとっての母」として当たり前のように「日本人男性にとっての母」を論じたとしても不思議ではないともいえる。しかし私がショックだったのは、私自身が認識していたそもそも「母」という概念、イメージが単に「男性=息子」にとっての「母」、「異性である母」でしかなかったのではないか、「同性である娘にとっての母」がごっそりと抜け落ちていたのではないか、ということだ。
 「母さんは夜なべをして手袋編んでくれた」「母なる大地」手近なところでは「Mother Lake BIWAKO」それら「母」なるイメージはただ生命誕生の源としての母であるとともに、自分にはなりえない異性としての母、つまり息子にとっての母親像でしかなかったのではないか。そして、やがて多くの者は自分がそうなるところの者として女性はそうした「男にとっての母親像」を生まれて以来ずっと時代社会文化教育によって刷り込まれ学習し取り入れることを強いられてきたのではないか、ということだ。
 そうした他者の目を通して見ることを強いられるとはどこにでも当たり前にあることだ。ある種の権威が(権力と言ってもいいのだが)、「このように見るべきだ」「このように受け止めるのが正しい」と「暗黙のうちに」時代社会は強いている。だから「そのように見ない者」「そのように受け止めない者」は異常であり、未成熟であり、逸脱しているから、社会の余計者として排除される。これは社会に生きている限り避けられない。自分で思い考え行為しているつもりでも、「私」は外界(時代社会)から注入されたもので出来上がった産物にすぎない。それらを引きはがしてゆけば、所有や表層から名前も肉体も、心さえなくなり、やはり魂だけが残るように思われる。
 だから私は、それから「女性=娘にとっての母」という男にとってまったく実感の遠い関係性を気にしている。「男にとっての母親像」を強いられたものでない、「女にとって同性である母親像」。創作において描く父親母親像の基底が「男にとって」に閉じ込められているならば、どだい女性など描けないし、「わかった風なこと」に手を出しても火傷しそうだ。フロイトが「人間」の無意識基層を形成するとしたエディプスコンプレックスなど露骨に「男」が「人間」とイコールであると前提にしたように、これはよほど用心してかからねばリアリズムなど標榜しえない。
 かつて透き通るような声を聖堂いっぱいに響かせ聖歌を歌っていたシャルロットチャーチが、女性たちのデモで手書きのボードを掲げている写真に見たことがある。「私たちは男の鎖骨から生まれたのではない。私たちは皆、女のヴァギナから生まれてきた」最初の女であるイブが最初の人類=男であるアダムの骨から生まれたという聖句を拒絶し、主体としての女性を宣言し、また抗議する言葉だ。これが「女性にとっての母」を暗示しているように感ぜられる。
 日本においてはどうなのだろう。そして男である私は何を呼びかけられ、そして問われているのか。そのフィールドは創作に結ばれねばならない。
 そのあとで私は30年ぶりに上野千鶴子の「スカートの下の劇場」をもう一度読んだ。そしてつい最近はタイミング良いことに、オレンジ色の髪をした上野千鶴子がNHKテレビ「100分de名著」でボーボワール「老い」のナビゲータをしているのを見た。全四回とも目が離せなかった。
 今はまだ、当分の間「女性にとっての母」を気にしていようと思う。