シナリオ

中島監督と谷さんにシナリオ作品の講評をいただいた。やはり、その指摘の一つ一つがとても心地よく響く。言われてなるほどと合点がいく。僕の作品の弱点にすべてかかわっているからだ。大概はすでに弱点と意識しつつ手に負えず先送りした部分であるが、言われてそうと気づいた箇所もある。
指摘やアドバイス、ときに提案のそれぞれをとても素直に聞くことができる。これは監督と谷さんがそもそも優れた「教師」でもあるからだ。僕なんぞにと思うほど尊重してくださった上での指摘の一つひとつだ。しかし、僕が「いい生徒」になれるのはそれだけではないと思う。中島監督が僕の人間観や世界観さらには作風を好んで下さっているのが分かるからだ。
つまり、僕の作品の「魅力」(と僕が思っているもの)をきちんと理解してくださっているという僕の方からの謝念がある。監督の弟子である谷さんも同じである。だから、話が早いのだ。人間の描き方にしても既存の社会システムのとらえ方にしても、おっしゃることはすぐ理解できるし、僕が言わんとすることもよくキャッチしていただける。このキャッチボールの楽しさは至福だ。この関係性を味わえる相性はどれだけ金を積んでも得られるわけではない。そのうえ無尽蔵なほどに極められた映画作りの智慧や経験がその背景にあるのだ。
たとえば、ここにも書いたが、過去の出来事や経緯、人物の来歴を台詞等の「語り」に押し込めるとみっともない説明台詞になってしまうし、それを回想にして描くと実は必然の乏しい強引なタイムスリップになってしまう。だからそれを、目に見える事物や事象で描くことができればいいのだがその着想がどうしても浮かばない。そのことを監督に述べると、①回想とはそもそもが「主観」の産物であるということ②回想には、「情報」を明快に提示して描くものと、より「情感」を強く描く場合があり、回想の主体によって、場面によって、その塩梅が変わる。ということを教示していただいた。思わず膝を叩きたくなった。回想シーンが客観映像となるとき不自然さが生まれる。その通りだ。そして回想に情報提示を込めるときと、エモーショナルな効果を産み出すための場合もある。うーん、実に勉強になる。シナリオ書きのための本当に得難い示唆だ。万事がこのとおり。
私のシナリオで、主人公は元の仕事に戻るのだが、監督は「最後、辞めっちまうというのもありなんじゃないか」とおっしゃる。僕もそれを考えたが、最後辞めて町を離れる駅のシーンを思い浮かべたらロマンチックすぎてだめだった、と言うと監督は成る程という感じ。さらに僕が、どうせ長く勤まるはずがないですから、というと監督はニコリとしてうなずかれた。要はあなたの作品だからあなたが決めたらいいということだ、
また、私のシナリオを読んでフェリーニの「道」のラストシーンを思い出した、と言われた。なるほどそうだ。全然気づかなかったが、通じる。僕はイタリア、ネオリアリスモ映画が大好きだ。そうだ、ああいう乾いた物語を描きたいのだ。シナリオから冗長なおさまりを排して「突き放す」ということを監督はしきりに言われたが、ネオリアリスモを想起すれば「突き放す」という意味がさらによく理解できた。
たった40分ほどだったが収穫は莫大だ。谷さんの直截な指摘もうんうんとよく理解できた。具体的に俳優が演じるのを想像してみたら、と促されたが、そういえば、まったく想像せずに書いている。具体的に思い浮かべれば、またシナリオの見え方もぐんと変わって見えて来る。
講座はこれで終わるが、今後2稿以降も見ていただけることに。これ以上うれしいことはない。お二人に読んでいただけると思うと意欲もがぜん湧いてくる。さらに書くことに精出し、生徒から弟子に昇格したいものだ。
さあ、書くぞ。