約束

高校時代をひとつのモチーフとした短編を書いた。また突貫で二週間で仕上げたのだが、よくない書き方だと自分でよくわかっている。中途で全体構成の修正を思いついても断念せざる得ないし、書き上げ一息ついたあとで細々としたしくじりに気がついてしまうものだからだ。書き上げた作品に自身で完成度に不満を覚えると愛着も湧かない。正直言って読み返すのも億劫になる。だから、そういうときは放っておくしかない。しばらく時間をおいてから、物語に全身麻酔をして手術にかかることになる。
それでも、今回の執筆は幸福でもあった。危険で鮮烈な10代精神の流血世界を彷徨できたからだ。
お前の心のふるさとはいつ、と尋ねられたら、躊躇なく指を折って「16歳から19歳」とはっきり回答する。そしてこう言い換える。「甲南高校の四年間」
ずっと描きたかった。やっと初めて触ることができた。もっと描きたい。今回のものは60枚の短編にすぎないが、何篇でも、何百枚でも、書き綴りたい。
あそこにすべてがある。そう思うからだ。

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劇「航路」上映会参加の感想を読むと、よくこれほど誠実で真摯な人が集ったものだとしみじみ思う。言うまでもなく脚本、俳優陣がすばらしいのだが、観客だって実にすばらしいのだ。そして、僕が深く思ったのは「伝える・教える・訴える」という傲慢さだ。やはり我が方に招き謳歌しようというのは、肌に合わない。僕はその方のもとに、出かけて行きたい。そして、話を聞かせてもらう。語っていただいたその尊さには、物語をつむぐことでしか返すことができない。
今回僕が戸惑ったのは、上映会に自分の夢や願いを重ね合わせる人が現れたことだ。しかし、申し訳ない。私は自分の約束を果たしたいだけだ。それは鋭く個人的な確信に由来する動機であって、共有し合うものではない。分かってほしい。時間がない。あと10年よくて20年しかないのである。全体の、あるいは共通の願い、はそれとして、なんとしても生涯のうちに果たさねばならない事項があるのだ。それをなすために生まれてきたのだから、それ以外で何を果たそうが意味はないのである。私は、魂揺さぶり魂を証しする小説を描かねばならず、その小説が社会に評価され広まらねばならず、多くの人に読まれねばならないのである。そして劇団男魂の京都公演も私にはその動機と一体だと理屈抜きに確信している。目的のための方便でなく、それ自体が目的である。だから、それ以外のことはそれぞれ同様に死に物狂いでやってほしい。僕は言わば自分の任務でいっぱいいっぱいなのだ。
そして私が魂文学に賭けるのは、私が「人生から受け取るバトン」であり、「応えるべき問い」だ。解答ではない。問いである。切り裂くような、何十何百何千年の問いであり、何千何万何億の魂の問い。答えるのでなく、応えること。だから、物語に結ぶ。これは直感的な確信であり、申し訳ないが揺るがない。できるできない以前に果たさねばならないことなのだから、仕方がないとしか言いようがない。四年前この直感にとらえられたとき、私はライターとして数編小説形式のテキストを書いたことがあるだけだった。ようやくここまで来たと言えなくもないが、実はまだこの体たらくということだ。

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それでも上映会で、私がひとつのテーマとしているむきだしの「罪」と正面から向かい合い社会の現場で実践されている様々な方々とお会いすることができた。これは得難い機会と大切に受け止めている。その辛酸や塗炭がしのばれ、心からの畏敬を覚えずにはおれない。私にできることがあれば、と思う。
新たな年だ。高校時代の精神にひととき戻ったせいで、無性に当時の友人らに会いたくなっている。自身の視界を刷新したい衝動に駆られているのだろう。