松下竜一-「狼煙を見よ」(河出書房新社)

二日で読了。鈴木邦男だったか、連合赤軍事件はのちに天誅組蜂起になぞらえられるだろうとあった。熊野山中を敗走し惨殺されていった天誅組と浅間山中を彷徨した連赤を重ね合わせているのだ。それは新右翼サイドからの連赤に対する意外な指摘だった。ならば、東アジア反日武装戦線は何になぞらえられるのか。それにしても東アジア反日武装戦線に連赤のような陰惨さが感じられない。結果的に連合赤軍は武装蜂起できず、反日武装戦線は三菱重工ビル爆破で市民に多大な犠牲者を生み出した。それでも、連合赤軍事件に何か転倒した倒錯や無惨な桎梏が感ぜられるのに比すれば、反日武装戦線は直裁で分かりやすい。この違いのおおもとは何なんだろう。同志殺しはおろか、内ゲバも考えられないと大道寺は語っている。それは組織論、共闘論におけるつまりシステムの相違は言うまでもないのだが、もっとそれぞれの深みにおいて決定的に異なるものがあるのではないか。
加害者性の自覚を自虐と呼ぶなら、愛国とはやはり幼児的な全能感に根ざす自己愛に過ぎないのではないか。
覚えている。高校を出て京都で生活を始めたのが75年である。サイゴン陥落、アナキスト5人逮捕、毛主席死去、手に取って広げた新聞一面のこれでもかというその大きな見出しに目を見張り、そしてそのニュースに強く動かされた。わずかひと月ほどの間のことだ。矢継ぎ早にそれら社会に、そして僕に轟いた。京都高野の浪人生専用下宿の玄関先、自分のポストの新聞を広げたのだ。あの土間を思い出す。