鉄輪(かなわ)

鉄輪(かなわ)

〈狂言 口明〉

 シテ 日も数そひて恋衣。日も数そひて恋衣。貴船の宮に参らん。げにや蜘蛛の糸に荒れたる駒はつなぐとも。ふた道かくる徒人を頼まじとこそ思いしに。人の偽り末知らで契り初めけん悔しさもただ我からの心かな。あまり思うも苦しきに貴船の宮に詣でつつ。住むかひもなき同じ世のうちに報いを見せ給えと頼みをかけて貴船川、早く歩みを運ばんと。通いなれたる道の末。通いなれたる道の末。夜の軋(ただす)の変わらぬは思いに沈む深泥池。生けるかひなき憂き身の消えん程とよ、草深き市原野辺の露分けて、月おそき夜の鞍馬川。橋を過ぐれば程もなく貴船の宮につきにけり。貴船の宮につきにけり。 

〈狂言 詞あり〉

 シテ いやいや妾がことにてはそうろうまじ。定めて人違えにてそうろうべし。

〈狂言 詞あり〉

 シテ さあらば帰りて我が姿、神託のごとくなるべしと。

 地謡 言うより早く色変わり。言うより早く色変わり。気色変じて今までは美女の容と見えつるが、緑の髪は天さまに。立つや黒雲の雨降り風と鳴神も。思う仲をぱ避けられし。恨みの鬼となって 人に思い知らせん。憂き人に思い知らせん。

 ワキツレ かようにそうろう者は 下京辺に住居する者にてそうろう この間うち続き夢見悪しくそうろう程に、清明の方へまかり出で、夢の様を占わせばやと存じそうろう。いかに案内申しそうろう。

 ワキ 誰にて渡りそうろうぞ。

 ワキツレ これは下京辺の者にてそうろうが、この間うち続き夢見悪しくそうろう程に。占の様を尋ね申さんために参りてそうろう。

 ワキ 占の表を考え申すに及ばず。御身の相好を見申すに、女人の恨みを深く被りたる人にて渡りそうろう。殊に今夜が御最期と見え給いてそうろうよ。

 ワキツレ 今は何をか包み申すべき 我この頃異妻を語らいてそうろうが、もしさようの事にてもやそうろうらん。よきように轉じかえて賜わりそうらえ。

 ワキ 随分轉じかえて参らせそうろうべし。

 祝詞 いでいで轉じかえんとて 茅の人形を人尺に作り、夫婦の名字を内に寵め、三重の高棚、五色の幣、おのおの供物を調えて、 肝胆を砕き祈りけり。ご謹上再拝。それ天開け地固まっしよりこの方、イザナギ・イザナミの尊、 天の磐座にして みとのまぐわいありしより 男女夫婦の語らいをなし 陰陽の道ながく傅わる。それに何ぞ魑魅鬼神妨げをなし、非業の命を取らんとや。大小の神祇。諸仏菩薩。明王部天童部九曜七星二十八宿を驚かし奉り、祈れば不思議や雨降り風落ち、神鳴稲妻頻りに充ち満ちて、御幣もざざめき鳴動して  身の毛よだちて、恐ろしや。 

 シテ それ花は斜脚の暖風に開けて、同じく暮春の風に散り。月は東山より出でて早く西嶺に隠れぬ。世上の無常はかくの如し。因果は車輪のめぐるがごとく。我に憂かりし人々に、たちまち報いを見すべきなり。恋の身の浮かむ事なき賀茂川に、

 地謡 沈みしは水の青き鬼。

 シテ われは貴船の川瀬の蛍火。

 地謡 頭に頂く鉄輪の足の焔(ほのお)の赤き鬼となって、臥したる男の枕に寄りそい。いかに夫(つま)びと、珍らしや。

 シテ 恨めしや、御身と契りしその時は、玉椿の八千代・二葉の松の末かけて、変らじとこそ思いしに。などしも捨てははてたもうらん。あら恨めしや、捨てられて。

 地謡 捨てられて、思う思いの涙にむせび。人を怨み。

 シテ 夫(つま)をかこち。

 地謡 ある時は恋しく、

 シテ または怨めしく。

 地謡 起きても寝ても忘れぬ思いの。因果は今ぞと。白雪の消えなん命は今宵ぞ。痛わしや。悪しかれと思わぬ山の峰にだに。思わぬ山の峰にだに。人の嘆きは生おなるに。いわんや年月、思いに沈む恨みの数、積もって執心の鬼となるもことわりや。

 シテ いでいで命を取らん。

 地謡 いでいで命を取らんと笞(しもと)を振り上げ後妻(うわなり)の髪を手にから巻いて、打つや、宇都の山の夢うつつとも分かざる浮き世に因果はめぐりあいたり。今さらさこそ悔しかるらめ。さて懲りよ思い知れ。

 シテ ことさら怨めしき。

 地謡 ことさら怨めしき。あだし男を取って行かんと、臥したる枕に立ち寄り見れば。恐ろしや、御幣(みてぐら)に三十番神ましまして、魑魅鬼神はけがらわしや、出でよ出でよと責めたもうぞや。腹立ちや思う夫(つま)をば取らで、あまさえ神々の責めを蒙る悪鬼の神通通力自在の勢い絶えて、力もたよたよと、足弱車のめぐり逢うべき。時節を待つべしや、まずこの度は帰るべし、という声ばかりはさだかに聞こえ。いう声ばかり聞こえて姿は、目に見えぬ鬼とぞなりにける。

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鉄輪
1.社人の口上

(貴船神社の社人が現れ、霊夢を語る。)

社人「この私は、貴船の宮にお仕えする者です。さて今夜、不思議な霊夢を見ました。それは、丑の刻参りに来る都の女に、霊夢をお伝えせよというものです。お話すべき細かいところまで見ましたので、今夜もきっとお参りになるでしょう。神社の入り口でお待ちし、夢の告げをお知らせしようと思います。」

2.貴船神社に参詣する女

(女笠をかぶり、旅装の女が登場。女は、離縁された夫への復讐心をつのらせ、毎晩、貴船神社に参詣していると告げ、京の町中から貴船神社への道行を謡う。)

女「日数を重ねてはいや増す恋心、日数を重ねるほどにいや増す恋心は、我が身を離れない着物のよう。貴船の宮(貴船神社)に参ろう。
『蜘蛛の家に荒れたる駒は繋ぐとも二道かくる(人はたのまじ)(蜘蛛の巣に暴れ馬を繋ぐことが出来たとしても、ふたまたをtiける男には身を任せまい。浮気な男の心を繋ぎ止めることはできないのだから)』という歌のように、浮気男に身を託すまいと思っていたのに。男の後の偽りに思い至らず、契りを結んでしまったことが、悔やまれる。ただこれも、自分の心のゆえ。そう思えば余りにも苦しい気持ちになる。貴船の宮にお参りして、住む甲斐もないこの世だが、同じ世に生あるうちに、あの男に報いを見せ給えと、お願いしに来た。貴船川の流れのように早く、足を運ぼう。
通い慣れた道の行く先、通い慣れた道の行く先は、夜も変わらず寂しい糺の河原を抜けた先。思いに沈み御泥池を眺めやれば、生きる甲斐もない辛い身の置き所もなく、消えてしまいたいほど。そんな露の身のはかなさを想わせる、草深い市原野辺の露を分けて、月の遅い夜の、暗い鞍馬川に至った。橋を過ぎれば程もなく、貴船の宮に着いた。貴船の宮に着いた。」

3.社人と女のやり取り
(社人は女を見つけ、明神の夢のお告げを伝える。女は人違いだと否定するが、その不気味な様子に、社人は恐れて逃げ出す。女は、夢の告げに従おうとした途端に様子が変わり、笠を捨てて駆け去る。)

社人「もし、申し上げたいことがございます。あなたは都より、丑の刻参りにいらしたお方でしょう。今夜、あなたの身の上について夢のお告げを承りました。願い事はすでに叶いました。今夜より後は、お参りなさらないでください。詳しくは、鬼になりたいとの願いでございますが、家へお帰りになり、赤い衣を裁って身に着け、顔には丹〔赤い顔料〕を塗り、髪には鉄輪を戴き、三つの足に火を灯し、怒る心を持てば、たちまち鬼神になれるだろうとのお告げでございます。急いでお帰りになり、お告げの通りになさいませ。何と、不思議なお告げでございましょうか。」

女「これは思いも寄らぬお言葉です。私のことではないでしょう。人違いです。」

社人「いやいや、確かにあらたかな夢のお告げですので、あなたのことですよ。このように申すうちにも、何とも言えず恐ろしく見えてまいりました。急いでお帰り下さい。」

(社人は逃げるように去る)

女「これは何と不思議なお告げだろうか。まずは家に帰って、お告げの通りにやってみよう、

地謡「と言うより早く顔色が変わる、言うより早く顔色が変わる。様子が打って変わって今までは、美しい女の姿に見えていたのに、美しい緑の黒髪は空へ向かって逆立った。すると空に黒雲が立ち、雨が降り、風が吹き、雷も鳴り始めた。雷神も裂けないほどに思い合った二人の仲は裂かれた。その恨みの鬼となって、あの人に思い知らせてやる、非道な男に思い知らせてやる。」

4.悪夢に悩まされる男の登場

(女の前夫、下京あたりに住む男が現れ、夢見の悪いことを述べる。)

男「この私は、下京あたりに住む者です。このところ、悪い夢が続きますので、安倍晴明のもとへ行って、夢を占ってもらおうと思います。」

5.悪夢を安倍晴明に相談する男

(男は晴明の家へ行き、悪夢の相談をする。晴明は、離縁した先妻の恨みで、夫婦の命が風前の灯であると告げる。男のたっての頼みに、晴明は祈祷を決意する。)

男「もし、ご案内をお願いします。」

晴明「どなたですか。」

男「はい、私は下京あたりに住む者ですが、このところ悪夢にうなされ続けています。それにつき、お尋ねしようと参りました。」

晴明「おおこれは不思議だ。占うまでもない。女の恨みを深く受けている方がこられたようですね。しかも今夜にはお命が危ないとお見受けします。何か事情がおありですか。」

男「はい、何も隠すことはありません。私はもとの妻を離縁して、新しい妻を娶りましたが、もしやそのことでしょうか。」

晴明「まさにそのように見えます。その者が神仏へ度々祈り、その数を積もらせました。その結果として、あなたのお命も今夜限りとなったもので、もはや私の手の施しようもございません。」

男「ここまで参り、お目にかかれたのはまことに幸いです。なにとぞ、どうかご祈祷だけでも切にお願いいたします。」

晴明「この上は、何でもやってみて、今夜なくなるはずのお命を、身代わりに転じかえてみましょう。急いでお供え物をお調えください。」

6.晴明の祈祷

(三段の祈祷棚に、夫婦の身代わりとして形代(侍烏帽子と鬘)と幣が置かれ、晴明が祈祷を始める。)

晴明「さあさあ、形代に運命を転じかえよう。茅萱で編んだ藁人形を、男女の身の丈と同じに作り、夫婦の名前を記してその中に込めた。三段の高棚に五色の幣を立て、加えて、それぞれ供物を調え、身も心も尽くして祈った。
神前にて、謹んで祈り奉る。天地開闢のその時以来、伊弉諾、伊弉諾の両神が、天の磐座で契りを交わしてから、男女夫婦となり、その夫婦の道が今にも伝わっている。それなのに妖怪鬼神が邪魔をして、寿命の尽きていない人の命を奪おうとするとは、何と言うことか。」

地謡「大社、小社の天神、地神、諸々の仏や諸菩薩、仏法を守護する明王や天童衆、さらには運命を司る九曜星に北斗七星、二十八宿の星々まで、あらゆる神仏を呼び出して、祈りを捧げた。すると不思議なことに、雨が降り、風が吹きおろし、盛んに雷鳴轟き、稲妻が光って、御幣もざわめき鳴動して、身の毛もよだつ恐ろしい有様となった。」

7.現れた鬼女の恨み言

(頭に火を灯した鉄輪を載せ、鬼になった女が打ち杖を持って現れ、祈祷棚に近づく。夫妻の寝床と見て、男の形代に恨み言を述べる。)

鬼女「春の花は、暖かい風に開いても、暮春の風に吹かれてはかなく散り、都の月は東山から出ては、すぐさま西の山に隠れてしまうという。世の中のはかなさは、まったく同じで、因果は、車輪の巡るようなもの。私を憂き目に合わせた者たちに、すぐに報いを思い知らせてやろう。
恋に焦がれた身が、浮かぶ寄る辺もない加茂川に、」

地謡「沈んでしまえば、水の青い鬼になるという。」

鬼女「私は、貴船川の早瀬の蛍火のように」

地謡「頭に載せた鉄輪の足に灯した」

鬼女「炎の赤い鬼となって」

地謡「寝ている男の枕に寄り添う。これはご主人様、ああ、お久しぶり。」

鬼女「恨めしや。あなたと契りを結んだその時は、玉椿の八千代、二葉の松の末までも、変わらない愛と思っていたのに、なぜお捨てになったのか。ああ、恨めしい。
捨てられて、」

地謡「捨てられて、恋の思いの涙に沈み、人を恨み」

鬼女「夫をなじり」

地謡「ある時は恋しく」

鬼女「または恨めしく」

地謡「起きても寝ても、忘れぬ思いの因果を、今こそ思い知れ、白雪の消え行くように、命は今宵まで。お痛わしい。」

8.復讐に燃える鬼女の退散

(鬼女は後妻の形代の鬘を掴み、打ち据えた後、夫を殺そうと夫の形代の烏帽子に向かう。しかし晴明の呼び寄せた守護神に阻まれ、時を待って再びまみえようとの声を残し、姿を消す。)

地謡「悪しかれと思はぬ山の峰にだに(生ふなるものを人の嘆きは)(悪くは思わない仲でさえ、人には嘆きが生まれるものなのに))というように、悪気のない間柄でも、嘆きはあるものだ。
ましてこの長い年月、悩ませられて思い沈んだ恨みの数が、このように積み重なれば、執心の鬼となるのも道理であろう。」

鬼女「さあさあ、命を奪ってやろう。」

地謡「さあさあ、命を奪ってやろう、と杖を振り上げ、後妻の(人形の)髪を手に絡め取り、打ちすえる。夢うつつともつかない、この憂世に因果が巡り来た。今さらながら後悔しきりだろう。さあ、懲りたか、思い知れ。」

鬼女「ことさらに恨めしい」

地謡「ことさらに恨めしい不実な男の命を奪っていこう。夫の形代の寝る枕元に近づけば、ああ恐ろしい、御幣に、(法華経守護の)三十番神がいらっしゃる。妖怪鬼神はけがらわしい、出て行け、出て行けとお責めになるのか、腹立たしい。思う夫の命も取れず、その上神々の責めを受け、悪鬼の神通力も、通力自在の勢いは失せて、力も頼りなく、足元もよろよろになった。またいつか、巡り逢う時節もくるだろう、まずこのたびは帰ろうと、言う声だけが確かに聞こえて、言う声だけが聞こえ、目には見えない鬼となった、目に見えない鬼となっていった。」