石井聰亙(岳龍)- 「水の中の八月」1995

久しぶりに見た。90年代がよみがえる。
とても好きな映画。映像もいい。小嶺麗奈もいい。バイクもいい。音楽もいい。男女とも高校の制服がいい。
映画のいわゆる評価は高くないはず。石井聰亙の作品紹介ではいつも脇へ追いやられている。それでもそんなこと関係ない。僕はとても好きだ。
臨死体験をくぐったあと訪れた精神的な変化を語る箇所がある。あの言葉はマズローのいわゆる至高体験であり、魂の学で言うユニバース体験だ。そのように定義づけするまでもなく、それをひそかに自分で体験してしまった者には、わかる。
目に見える物、触れるすべてがいとおしく、歓喜が込み上げる。それは誰に告げてもわかってもらえるはずがないし、異常と思われるに違いないから決して語らない。
あのときに実は死んでいた。もう一度心が肉体に戻ったのは何かをしなければならないのだがそれが今は思い出せない。
これは、いわば「死生観」だ。
映画で、物語で、それを正面からストレートにテーマとして表現しようとした石井監督はやはりすごいと思う。
小嶺麗奈は当時15歳。高飛び込みで跳ね、着水するまで、その水着姿はとても美しいが、今ではその年齢の肢体を美しいと語ることもためらわれる。
小嶺麗奈は笑わない。笑顔を振りまき好感を獲得するさもしい技を人はいつから身に着けるのだろう。その矛盾(ほこたて)のような笑いから遠いところにある自分の顔。それは内において語る言葉があらわす。
無性に自分の十代にいざなわれる。はるか昔であっても、その過去は私の砦だ。行けば、仲間が今でも待っているはずなのだ。
「水の中の八月」私の大切な映画だ。