「航路」

「感動ポルノ」という言葉がある。簡単に言えば、消費される感動、ということだ。
スポーツで汗を流すように、感動で涙を流し「すっきり」する。「泣ける」と銘打って広告しているものは大概がそうである。泣いてすっきりして、たとえば映画なら、映画館を出ればその物語のことなど忘れてしまう。そういう類の「感動」は情感の劣化を招く、迷惑な一面もある。ありふれた日常や当たり前の現実の中に深淵な感動がひそんでいる。感動を消費することに慣れると、身近な日常に孕むおののくほどの感動に鈍感になってゆくように思えるからだ。
私の小説で泣いた、という感想をもらうことがたびたびあった。ひと頃、まじめに悩んだ。私の小説も感動の安売りをしてしまっているのではないかと。しかし、厳しい現場で心理の臨床に向かっている或る専門家が私の小説を読んで感想を伝えてくれた。縷々述べていただいたのだが、印象に残った言葉があった。「感動しただけでなく、自分に対して痛い、身につまされるような深さがあった。一篇の小説でそこまで内省にいざなう力があるのは凄いことだ」と。それは彼自身が心理臨床家として対話によって目指しているものでもあったからだ。
胸をなでおろした。そうなのだ。ただただ読者の御機嫌をうかがい、気持ちよくさせるだけのものでは物足りない。すぐに消えてしまう感動よりも、いつまでもその余韻が心深くに響き、或いは例えそのときは何気ない印象でもその小さな棘がやがて疼き、できうればその人の人生の転機や深化へと変えるきっかけとさえなりうる、そういう物語。
「航路」がそうあってくれたら、と念じる。