「清経」 京都大学観世能

第23回京都大学観世能 (観世会館)
前々日金剛能楽堂で同じく京大の能楽部である金剛会宝生会等演じる能「鉄輪」を観た。実は目を疑う失敗を舞台上に目撃し、やはり学生の趣味であれば期待は酷と納得し、もっぱら能楽師による囃子を楽しんだ。
だからさほど期待はしていなかったのだ。ただ、単独にて観世会館で演じるのであれば、もしやとの思いもあったが。なんの、実に見事だった!比較して悪いが、先回の学生能は声量にせよその響きにしてもか細く、まるで囃子方の重機にはさまれシテは危うげな自転車のようであった。ところが観世会は冒頭からワキの朗々たる声が会場の隅々まで響きわたるのだ。金剛会のシテと同様、観世会のワキ、ツレも女性であったが、実に見事。
僕の無知のせいでもあるのだろう。双方を並べ比較することがそもそもの過ちなのかもしれない。
そしてはからずも演者の力量というものがいかに上演の出来を左右するか気づかされることになった。これまでそれぞれ能楽師個人については注意をはらうことはなかった。たしかに音声の響きにしろ万別であることは了解していた。響きとは声量だけではない。情念なのだ、表現としての。その質は歴史に連なる型ではあっても、やはり個人に由来する性質や力量を避けられない。
なるほど能の深みを再確認する。唸り、発声や動作、ふるまい、それら含めた一人の表現が、シテワキツ絡み合い、そこに囃子方に地謡も重層的に畳みかけるのだ。
能、十分に楽しめた。
きちんと身を入れて観た修羅物は初めてと思う。めでたい初番物にはまったく興味がなく、悲劇としての能しか関心がないのだが、修羅物も興味深い。それまで見いだせずにいた「良さ」を感ぜられるようになるのはうれしい。楽しみが増え、世界が広がる。

パンフレットに、ワキを演じた学生が文章を綴っている。これも読ませる。さすがだ。

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善悪不二 男女不一

 能には「和歌の功徳」というわかりにくい概念が頻繁に出てくる。つまり、和歌を詠むと仏教の徳を積んだことになるというのだ。そもそも和歌は、初期仏教では「狂言綺語」、つまり人々をかぶらかすので悪いものとされている。しかし日本で仏教が広まると、和歌も悟りのための方便であるという理屈が受け入れられてしまうのである。
 さて、能《芦刈》は、世阿弥が唯一夫婦の賛美を主題に据えた曲である。しかし終曲の場面で賛美されるのは「夫婦」ではなく「和歌の徳」である。
 左衛門夫婦は貧しさのため離縁していた。都で生計を立て直した妻は、難波で芦売りに身をやつしていた左衛門に再会する。左衛門は恥じ、
  「君無くて芦刈り(悪しかり)けりと
  思うにぞ いとど難波の
  浦は澄み(住み)憂き」
と詠む。それに対して妻が返歌する。
  「芦刈らし よからんとてぞ 別れにし
  何か難波の 浦は澄み憂き」
 芦を刈った難波の浦が濁っているように、妻がいない難波は住みづらいよ、と嘆く夫に対して、妻は生活を良くするために別れたのに、なぜ住みづらいなどと仰るのですかという。実は妻の歌は、能以外の説話では「だからお前は一生難波に住んでろ」という皮肉的な捨て台詞であるが、能ではこの和歌によって夫婦は和解したと解釈され、この後ともに都に帰るのである。これは不自然な改変に見える。

 「男女の仲」というのも、和歌と同じく仏教が「悪しかり」としたもののひとつである。ただこれも日本でそのまま受け入れられたわけではなかった。例えば能《杜若》では、在原業平は歌舞の菩薩なので、業平と契った女性は成仏するという理屈が出てくる。考えてみれば和歌や男女の仲だけではない。「煩悩即菩提」、謡曲には苦しむことも、男女のあれこれも、風趣に贅を尽くすことも、そのままで悟りなのだという価値観が残っている。折口信夫はオリジナルがコピーされるとき、模倣と土着の価値観の抵抗を受けて新しいものになることを「もどき」と呼んだが、仏教が日本でコピーされるとき、仏教の善悪観はほとんど無効化されてしまった。
 山折哲雄いわく、日本人は、善悪は人間に支配できるものではないという諦念をもち、善悪観を試される時には、短歌や和歌を作り、その叙情にすべて溶かし込んでしまうという。例えば、源平の時代から第二次世界大戦時まで、戦時には多くの歌が詠まれてきた。つまり和歌は、それそのものが仏教によって「悪しかり」とされたものでありながら、「悪し」きものも「よがらん」ものもまとめて「芦刈り」のような風趣に溶かし込んでしまうのだ。日本人にとってむしろ悪とは心から自然に出るものを否定することである。能《百万》のクセには「仏も御母を悲しみ給う道ぞかし いわんや人間~」という詞章がある。仏がまるで冷徹であるかのような言い草ではなかろうか。しかし日本人は仏教そのものも風趣の中に溶かし込んでしまった。

 ところで、能《清経》でも清経の妻が歌を詠んでいる。
  「見るたびに心尽くしの髪なれば
  憂さにぞ返すもとの社に」
 清経の形見の遺髪を拒否する場面である。この歌は清経が語った宇佐八幡のご神託に似ている。
  「世の中の宇佐(憂さ)には神(髪)も
  なきものを 何祈るらん 心尽くしに」
 これは日本的な善悪観の残酷な一面をよく表している。「親の因果が子に報い」とよく言うが、善悪に従れない日本人が従ったのは個人を超えた大きな因果である。清経は信心深い。大概の仏教ではそういう人は救われるのだが、「神」は「可哀そうだけど、どんなに祈っても平家一門の因果によって果てる運命にあるんだよ」という。
 《芦刈》の夫婦が純粋な日本の善悪観を賛美するためのものとすると、《清経》夫婦は日本の善悪観に翻弄された人々の象徴である。
 清経は「神」に見放された後、髪を妻に残し、仏に従って入水した。清経は悟ったのである。この世の因果に従っていても生きる道はない。しかし、ただ一つ断ち切れない因果が妻であった。だから、妻に「カミ」を送った。ところが妻はその因果を拒否する、それも清経を拒否した「神」に似た和歌で。妻は清経を見放したように見えるが、徹頭徹尾、清経との契り、つまり「男女の仲」が恨めしいとしか言っていない。どんなに絶望してもこの世の因果の中に生きるほかはないと思っているからこそ、簡単に因果を捨てた(ように見える)清経を「悪しかり」としたのだ。結局この夫婦喧嘩は、お互いを思っているのに、立場や考え方が違うために詳いになる点でごく平凡な夫婦喧嘩である。ただし二人を分かつのは日本的な善悪観に生きるべきかという途方もなく大きな問題であり、そこに日本人の普遍的な苦悩が描かれているのではないだろうか。

 岡潔がこんなことを言っていた。数学は全くの理論的世界であるように見えて、感情の納得なしには証明することができないものだと。これも一種の「もどき」である。この世に絶対の理論というものがあるとすれば、それを人間の目を通して見たとき必ず「もどき」が起こる。清経は「何事も無常である」というある意味真理を悟って入水した訳だが、南無阿弥陀仏を唱えた時ではなく、妻の感情の赦しを得たとき成仏したのではないだろうか。そのとき、清経と「カミ」が和解したのではないだろうか。

参考文献
岡潔、小林秀雄(2010)『人間の建設』 新潮社
平野多恵(2011)『明恵―和歌と仏教の相克』 笠間書院
山折哲雄(2009)『悪と日本人』 東京書籍
山折哲雄(2014)『能を考える』中央公論新社

              (文) 武田結花

(第23回京都大学観世能 パンフレットから)

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清経

世阿弥作

1.清経の妻、淡津三郎の登場と問答
(都へ帰り着いた淡津三郎は、清経の妻に、清経の入水を報じる。嘆きのあまり、妻は清経の形見をつき返してしまう。)

淡津三郎 幾重にも波が重なる遥か遠い海路を経て、さあ、都へ帰ろう。

淡津三郎 私は、左中将清経にお仕えしている、淡津の三郎と申す者でございます。さて、この度、ご主人の清経様は、先の九州での戦で敗北され、都へはとても帰れない身となり、雑兵の手にかかって死ぬよりはと、豊前の国、柳が浦の沖で、月の明るい夜に、船より身を投げて命を絶たれたのです。

淡津三郎 舟の中を拝見しましたところ、形見としてご自分の遺髪を残しておられましたので、これを持って、都へ上るところでございます。

淡津三郎 このところ、ずっと鄙びた田舎住まいが続いたが、思いがけず、故郷の都に帰ることになった。しかし、その都も、昔の栄華を極めたころとはすっかり変わってしまった。今は、物悲しい秋の夕暮れで、旅の衣も、時雨ですっかり濡れてしまう季節。
雨と涙で萎れる袖で、身の上を隠し、人目を忍びながら都に上ろう。

淡津三郎 道を急いだので、早くも、都に着いた。

淡津三郎 もし、お取次ぎ願いたい。筑紫国より、淡路の三郎が参りました。その旨、お伝えください。

清経の妻 淡津の三郎ですか。取り次ぎを頼むまでもありません。こちらへいらっしゃい。さて、このたびは何のお使いですか

淡津三郎 はい、それが、お顔向けできないお知らせでございます。

清経の妻 顔向けできないような御使者とは、もしや清経様が御出家でもなさいましたか。

淡津三郎 いえ、御出家ではございません。

清経の妻 先日の九州での合戦でも、ご無事であったと聞いていたのですが。

淡津三郎 確かに九州での合戦でもご無事でいらっしゃったのですが、清経様のご心中を拝察いたしますところ、都へはとうてい帰れない、名もなき雑兵の手に掛かって死ぬよりは、とお思いになったのか、豊前の国柳が浦の沖にて、月夜の夜更けに船より身を投げられ、お亡くなりになったのです

清経の妻 なんですって、身を投げ、亡くなられたと言うのですか。

清経の妻 ああ恨めしい。討たれて、または病気のゆえに命を落とされたのならば、どうしようもないと思い切れるけれど、ご自分で身を投げてしまわれたとは。かねてよりの、再会の約束は偽りになってしまった。それを恨んでも、その甲斐もなくなってしまうとは、ああ何と悲しいことだろう。

地謡 万事が無常のこの世は、夫婦の約束さえも、はかないものだ。

地謡 このところ、人目を避けるようにしてきた我が家の、垣根の薄に忍びやかに吹く風のように、声も立てずに泣くばかりの身だったけれど、今はもう誰に遠慮することもない。忍び泣きなどするものか。有明月が残る夜明けまで、夜通し鳴くというほととぎすのように、清経の妻であることを隠すことなく泣き明かそう。その名を隠すことなく、泣き明かそう。

淡津三郎 その後、船中を改めましたところ、形見として鬢の髪を残しておられました。これをご覧になり、お心をお慰め下さい。

清経の妻 これは中将殿の遺髪か。見れば目の前が真っ暗になり、心も失せて、益々悲しくなるばかりだ。「見るたびに心づくしの髪なればうさにぞ返すもとの社に(見るたびに悲しみを増す心尽くしの髪だから、つらさのあまり、筑紫の神、宇佐八幡宮のお近くにいらっしゃるはずの、元の主にお返しします)」と、

地謡 遺髪を宇佐八幡宮に送り返した。しかし、その後も夫のことが懐かしく、夜通し涙をこぼす毎日である。せめて夢の中にでも現れ給え、と祈りながら、寝つかれずに枕を傾ける。この枕が、恋しい心を亡き夫に知らせてくれるのか。

2.清経、妻の夢の中に現れる
(清経の妻の夢に、清経の亡霊が現れる。)

清経 聖人は、夢など見ないというが、誰でも夢は現ではないと知っている。眼の中に迷妄の塵があれば、広大な三界も狭く感じる。心中に迷いがなければ狭い床でさえ広く感じられよう。まことに憂い深いと見た世も夢、また辛いと思ったことどもも幻であり、雲や水のように跡形のないものだ。そう悟ったつもりでも、この娑婆世界の故郷に心引かれ、行き帰りして夢のうちに迷い出てしまう。わが心の何とはかないことか。

清経 「うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき(転寝に恋しい人の夢を見て以来、はかないはずの夢を頼みにし始めた)」

清経 (その古歌の如く)懐かしい妻よ、今清経が来たのだ。

清経の妻 不思議なことに、ほんの少しまどろむ枕に見え給うのは、紛れもない清経殿の姿。確か、身投げなさったので、夢でなくてはお会いするはずもない。ああ、たとえ夢であろうとも、お姿を見せて下さったのはありがたいこと。しかしながら御寿命を全うせず、我とわが身をお捨てになったのは、私に偽りの約束をなさったということで、ただ恨めしいばかりです。

清経 そんなふうに私のことをお恨みだが、私にも恨みはある。近くに置いて欲しいと贈った形見をどうして返してしまわれたのか。

清経の妻 いえいえ、形見を返したのは、思いあまってのこと。その時詠んだ歌に、「見るたびに心づくしの髪なれば(見るたびに思いが増し、心が乱れる髪だから)

清経 うさにぞ返すもとの社に(心苦しく、元の宇佐神宮に返します)」と語ったのは、見飽きたからなのか。そうでないならせっかく黒髪を届けたのだから、私を愛している限り手元において欲しかった。

清経の妻 それはお心得違いというものです。心を慰めるための形見とおっしゃいますが、見ればいっそう思いが乱れるのです。

清経 わざわざ送った甲斐もなく、形見を返したことを、こちらで恨み、

清経の妻 私は命をお捨てになったことを恨み、

清経 互いに恨みを語り、

清経の妻 恨みを語られる。

清経 形見があるのが、かえって辛い。

清経の妻 この黒髪は、

地謡 ただでさえ恨めしいのに、さらに恨み言が加わって、涙が止まらない。せっかく手枕を交わして二人が逢う夜だったのに、恨み言が災いして、まるで一人寝のように背を向け合って眠るとは、悲しいことだ。まさに形見のあることで殊更に辛い。これがなければ、忘れることもあろう、そう思うと涙で袂がぬれてしまう。袂が濡れてしまう。

3.清経の物語
(清経は、自ら死を決意した経緯を語る。)

清経 (死を選ぶに至った)昔の出来事を、詳しく語って聞かせてあげよう。恨みをお晴らしなさい。

清経 さて、わが軍が立て籠もった筑前、山鹿の城にまでも、敵軍が押し寄せて来ると聞いたので、取るものも取りあえず、夜もすがら高瀬舟に乗って、豊前の国柳というところに着いた。

地謡 そこはまさに名前通り、柳並木の浦で、その木陰にかりそめの皇居を定めた。

清経 その後、宇佐八幡宮に御参詣になり、

地謡 八幡大菩薩への手向けの供物に、神馬七頭に加え、その他金銀、様々な捧げ物をしたのである。

清経の妻 こう申すと、なおも私の恨みごとに聞こえるかも知れません。ですが、さすがにまだ天皇も在位なさり、その御治世の行く末や、平家一門の今後を見届けず、むなしく、お一人で身を捨ててしまわれたのは、なんとも理由の立たないことではございませんか。

清経 確かにそれも道理であるが、もはや我が一門に見込みのない証ともいえるご神託があった。それを語ろう、よくお聞きなさい。

地謡 そもそも宇佐八幡に参詣し、さまざまの祈りを誠心誠意行い、数々の願い事をしたものの、おそれ多くも御宝殿の錦の帳の内より、あらたかなお告げが、次のように下された。

清経 「世の中のうさには神もなきものをなに祈るらん心づくしに(この世の苦しみは宇佐の神でも救いの手を差し伸べることができないのに、この筑紫の地で心を尽くして何を祈ろうというのか)」

地謡 さりともと思ふ心も虫の音も弱り果てぬる秋の暮れかな(たとえ今は辛くとも、そのうちに盛り返すと思っていたわが心も、虫の音とともに弱り果ててしまった秋の暮れであるよ)」

清経 されは神も仏も、三宝(仏法僧)も、

地謡 我が一族をすっかりお見捨てになられたかと心細くなり、平家一門は皆、呆然と力を落とし、弱々しくすごすごと宇佐八幡宮より再び柳の御所へ、帝をお送り申し上げた。まことに哀れな有様であった。

地謡 そのうちに、近隣の長門の国にも敵が向かったと聞き、また船に乗って、どこへ行くあてもなく漕ぎ出した。皆の心の内は本当に惨めであった。まさに世は、移ろうもの。保元の春の頃の栄華はすでに去った。この寿永の秋、一門は紅葉のように散り散りになってしまい、波に浮かぶ一枚の木の葉のような頼りない小舟に身を任せているからなのか、柳が浦を吹く秋風に立つ波すら追手のように思い、彼方の海岸に白鷺の群がる松を見ては、源氏の白旗をたなびかす大軍かとおののくばかり。ここに至って清経は、心のうちで深く思いをめぐらせる。それにしても八幡大菩薩のあらたかなお告げとして心魂に残る道理を考えれば、まこと八幡大菩薩は正直な者にのみ宿り給い、驕れる平家はお守りいただけないのだ。一途にそう思い込んだ。

清経 どうすることもできない。いずれ消える定めにある露の身を、

地謡 なおも未練を持って浮き草にしがみつかせては、浮き草のような寄る辺ない船に乗り、波間に漂って辛い目を見るのか。いっそ入水して果てようと決意し、素知らぬ様子で機会を待ち、ちょうど暁のころ、有明月を眺める素振りで船首に立った。腰より横笛を抜き出して、澄みやかな音色を響かせて吹き鳴らし、今様を朗詠し、来し方行く末を鑑みた。すべてはこの、はかない波のように消えていく。昔は返ることなく、悩みは尽きない。この世もまた、流転の旅だ。思い残すことなど何一つない。よそ目には、ただひたすら狂人と見えるかも知れないが、人からどう見られようと構わない。この仮の世の夜空、月は西へ沈み行く。それを見れば、さあ自分も月とともに西方浄土へ連れ立とうと気持ちが高まる。「南無阿弥陀仏弥陀如来、私を西方浄土にお迎え下さい」と、ただ一声を最期に、船より、かっぱと身を投げて引き潮に呑み込まれた。海底に沈んで、水屑となり果てた哀れな身の、何と悲しいことか。

4.修羅道の苦しみと弔いの有難さ
(清経は、戦いに明け暮れる修羅道の苦しみを表すも、最後は念仏の功徳に救われ、成仏する。)

清経の妻 お話を聞けば、目の前は真っ暗になり、この世に残って悲しみに沈み、流す涙は雨と注ぐ。何と恨めしい夫婦の契りでしょうか。

清経 もう何も恨みごとを言うな。奈落(地獄)の底も現世も同じこと、この世のはかない哀れさは誰であっても変わりはない。

清経 さて修羅道に堕ちれば、あたり一面の

地謡 さて修羅道に堕ちれば、あたり一面の立木はみな敵に変わり、雨は矢先となって降りかかり、土は鋭い剣、山は鉄の城と化す。雲の旗をなびかせて楯を突き、驕慢の心で鍛えた剣を揃え、眼には邪見の光が宿る。人間の持つ、愛執・欲念・貧着・瞋恚・愚痴の煩悩を携えた迷妄も、悟りの真如も入り乱れて、波が打ち寄せ、潮が引くような有様で、惨状を呈する。西海・四海(九州・瀬戸内)での海戦に身を挺した因果により、修羅の苦しみを受ける様子を見せて後、もはやこれまでと去る。本当には、最期に乱れのない心で唱えた念仏の功徳を受けて仏法の船に乗り、心も清らかになった清経が、仏の救いを得た。それは、まことに有難いことであった。
(the能ドットコム から)