観阿弥 宝生流「通小町(かよいこまち)」

宝生流「通小町」
観阿弥作。「卒塔婆小町」の問答からの展開がとても好きで、「通小町」のあらすじは観劇するまであまりピンと来なかった。タイトルに引きずられ「小町」がシテで「深草少将」がワキと思い込んでいたせいだ。
これは「深草少将」の恨み物語。ともに死後天上界に帰還できず、この世に亡霊として彷徨う小町と少将二人が旅の僧に出会う。はやる心で小町は僧に成仏させてもらおうと願い出るが、後ろに控えた少将が成仏させてなるものかと小町を無理に引き留める。返す刀で、今すぐここを立ち去れと僧に迫る。この第一声が実に怨念こもっているし、傘で顔姿を隠したまま呪うように述べるくだりは得も言われぬ迫力がある。さすが宝生流宗家である。それから少将はおのれの怨念の由来を延々語りだす。小町のもとに百夜通えば思いを叶えようという小町の虚言を真に受け、夜な夜な一人通いつめたその日々がよみがえり、恋慕のとりことなったあわれなおのれの姿を二人に訴えるように縷々述べる。そしていよいよ指折り今日で百夜目だと歓喜に震える少将。傘を烏帽子に、蓑捨て絹まとい、そして祝い酒をと思うところを仏の戒めを思い出し自らとどめる。そのとき、おのれを戒めた果報があらわれ、二人は成仏して天上界へいざなわれる。と、こういうドラマチックな展開。
哀れな男の甲斐ない恋慕の妄執により地獄に落ちた物語は、「綾鼓」も同様。「綾鼓」はさらに、男は身分低い庭番でおまけに老人だという身のほど知らぬ恥ずかしさゆえ自殺して怨霊と化すという凄まじさだが、いずれにしても一方的に男の側が勝手に一人芝居で恋慕つのらせ、女の戯れ言を真に受けて舞い上がり、その頂点で冷徹な現実突きつけられ一気に転落して裏切られたと被害感から女への巨大な怨念にとりことなる。こう書けば、まさにストーカーの精神症状エロトマニア(被愛妄想)にも近い。
逆に女の側から男への恋愛妄執の能物語は私の知る限り、ない。無知なだけであるかもしれないが、この作成が室町期で、以後観阿弥世阿弥親子により庶民の猿楽が武士の能楽に変容進化してゆくことを考えれば、これは「男のみ(あるいは男同志)で完結する世界」の反映であるかもしれない。つまり、ひそかにミソジニー(女性嫌悪)を宿しているのではないかということだ。江戸期まで続く武家社会の男色文化(美少年世阿弥は足利義満から格別の寵愛を得て大成する)が想起される。
つまり、この「通小町」物語で少将が成仏できぬ亡霊と化した理由はそもそも物語の中心テーマとして描かれているが、小町が成仏できぬ理由は、恨む少将が小町の成仏を許さない、としか明かされていない。「卒塔婆小町」のように、小町には小町の成仏できぬ今生の罪業があったのではないかと思われるが、ここでは看過されている。物語に不要なのだ。おまけに少将が劇的に言わば回心により救済され、彷徨う亡者から天上へ向かう魂へと変容するのに、小町はともに救われましたと地謡によって語られるだけである。
構成として少将物語を際立たせるためにもちろん余計な演出や構成は不要である。ただ、この物語の「魅力」そのものに、ミソジニーの匂いを感じてしまうということだ。とても興味深い。
この映像は50年以上前のテレビ放送である。脇に字幕が出るので物語は追えるが、やはり謡本が欲しい。手元にある小学館の日本古典文学全集謡曲集一やその他能解説本に収録がなかったので、岩波の日本古典文学大系の謡曲集一を入手した。amazonで290円である。いい世の中になった。収録は観世流謡本を底本としており、DVD映像は宝生流である。映像では僧と小町による冒頭から問答部分、第6段までが飛んで、いきなり着座したワキ(僧)の読経から始まる。宝生流の構成であろうと思われるが、もしや映像編集でカットされたわけではないだろうと。
このDVDもヤフオクで1200円だ。短いのですでに何遍も視聴した。同録の「自然居子」は観世流梅若、人間国宝。これはまた別に。