映画シナリオ

東京から帰ってきた日の夜中にシナリオ書き上げ、それから奇妙な虚ろがまとわりついている。不快ではない。事後の空洞は興奮の脱落ゆえの無音。寝ても回復しない睡眠不足のようなものだ。
日曜に監督から講評をいただく。結部分の構成が乱雑だったのが気がかり。もっと完成度高いものを提出したかった。
小説を先に書いて、それをシナリオに脚色改編する形ではペラ200枚もの二編書いた。しかし一気にシナリオから書き上げたのは、昨年の50枚短編もの一度きり。今回、小説ならば原稿用紙100枚(200字ペラなら200枚相当)程度になりそうな物語と感触を抱いていたが、シナリオとして書いたら170枚弱、原稿用紙80数枚にしかならなかった。どうしてシナリオだとぐっと減ったのか、よくわからない。

先に企画を監督と講師の脚本家に見てもらっている。全体については評価していただいたが、その際に具体的な指摘も得たのでそれが執筆上の先導役にもなり、また大げさに言えば枷にもなった。
指摘の第一は「解決役の登場人物」を観客に見透かされると、物語の魅力が落ちてゆく、ということ。確かにそうだ。「航路」でも杉本さんの脚本では、思いがけない人物がやがて「解決役」になっている。監督が指摘されたとおり、この人が出てくると或る緊張関係や疑問が解かれるのだ、と観客に思わせたらダメだ。この点でずいぶん悩んだ。
そして、やはり「回想」の使い方だ。必然のない「説明のための回想」が興醒めなのはわかる。小説だと、自由に過去に時間をスリップして描いて挿入するのはなんら不自然ではない。説明のためでなく、ひとつの事態を立体的に生き生きといのち宿らせるためには、「過去」がとても重要だ。シナリオにおいて、「過去」をどう描くか。回想や誰かの「語り」でなく、事物や出来事など目に見える事象によって過去を描くという技術、具体的な着想の貧困さを自分で思う。
さらに、脚本家の谷さんからは、心的転回が早すぎるのではないかと指摘された。これはそもそもの物語の必然の問題。自分でもそう感じていたこと。人が変わるとはどういうことか慎重で丁寧に描かねばと思った。

監督の講評を得たらもうシナリオ塾は終わることになる。
今度は逆にシナリオから小説に書き上げたいと思う。