シェークスピア-「ロミオとジュリエットの悲劇」1595

溝口健二の映画「近松物語」から、原作の近松門左衛門「大経師昔暦」を読み、さらに同じ事件を題材に小説化した井原西鶴の「好色五人女巻三」まで読み進めた。作家の微妙な物語のアレンジに注目すると、現代とは異なる江戸時代における大衆の恋愛観や性(行為)観をいくらかなりとリアルに感じることができた。そのおかげで、現代の私たちが当たり前で当然と思っている恋愛や性に対する「受け止め方」が、決して普遍のものではない、相対的なひとつの在り方にすぎないことが自覚される。「当たり前」で「当然」であることは、ことさら特別に意識されることすらない。見過ごされる。おまけにその「受け止め方」や「発想」が周囲の多数に共有されていると、それはまったく点検の機会を失い、いつのまにか絶対的なものと疑いなく固く信じ思い込み、対象化も難しいほど一体となり意識すらしなくなる。私たちの「当たり前」「常識」「普通」が、実は偏狭な思い込みにすぎなかった、と目から鱗が落ちるとき、精神が解放されるその爽快感はなんとも言えない。「歴史による価値観の違い」「土地・国による価値観の違い」を実感として受け入れることは狭量な呪縛からの解放である。しかし一方では自分の保有する正当性を剥奪される苦痛を伴うことにもなる。だから、自分の「当たり前」を奪われることに抵抗し、相手の違う価値観に対して、自分の「当たり前」によって断罪し審判し、一人よがりな評価を下すことで、自分の偏狭な絶対性の小島に閉じこもろうとすることも当然に生じる。それほどに「他」を認めたくないし、「違い」を許したくないのだ。それは「絶対性」「全体性」の快楽に耽溺していたいという未熟な幼児性に過ぎないのだが、往々にそれは「当たり前」を共有し合うコミュニティ全体で狂騒的に信仰される。そこに、「我々の優位性」や「我々の同一性(アンデンティティ)」さらに「我々を統一してつなぐ絆」が持ち出される悲劇がさんざん繰り返されてきたことはすぐに思い当たることだ。明らかなのである。時代によって、その土地(国)によって、価値観は変遷してきた。今私たちが絶対と思う「当たり前」も、かりそめの相対性の中にある。それを競っているのでなしに、まずその相違、その相対性を承認することを前提にしたいのだ。それが真相であり実相なのだから。つまり多様性を尊ぶとはそういうことではないか。誰かが可哀想だからとか、それが倫理的に正しいからというのではなくて、或る事態事象に対する「当たり前」の受け止め方や印象や評価は、実はただの相対的な根拠しかない一つの在り方に過ぎないという厳然たる事実に由来する、すぐれて合理的な態度だと言える。

西鶴を読み、同じ日本という国であっても、人間の根源的な感情であり営みである恋愛や性行動に対する印象は、現代と江戸時代ではこのように違うのだと実感された。すると、時代の差ではなく、土地の差、国による差というものも味わってみたくなった。思い浮かんだのは「ロミオとジュリエット」だ。恋愛物語と言えば誰でも思い浮かべる。作品が前提としている中世イギリスの恋愛観や性意識はどのように現代の日本と異なるのだろう。
私は、実はシェークスピア戯曲「ロミオとジュリエットの悲劇」を読んだことがなかった。敬遠してきた理由はただひとつ、読みづらいからだ。しかし、そのストーリーは知っている。1936年版の映画を何度か観たからだ。アメリカ映画だが、さすがハリウッド古典。町並みは中世の雰囲気そのままだ。もちろん、無知な東洋人がまんまと騙されているだけなのだが、騙すだけの説得力があるということだ。いい映画だった。
早速かなり前に古本で買ったシェークスピア戯曲「ロミオとジュリエットの悲劇」(本多顕彰訳岩波文庫)を本の山から引っ張り出して開いた。やはり、ひどく読みづらい。もともと戯曲という形式に慣れていないのだが、そもそもセリフの意味からが訳わからない。隠喩表現の難解さだけではない。英語による韻律を味わう言葉遊び的な文章ではないか。日本語にすると原語の韻律はまったく消える。これはどうしようもない。

例えば、谷川俊太郎の「かっぱかっぱらった」を英語で読むことを考えたらよくわかる。
「かっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた/かっぱなっぱかった/かっぱなっぱいっぱかった/かってきってくった」
まずこれを音の響きを無視して、意味だけわかるように書くとこうなる。
「河童は、かっぱらった/河童は、ラッパをかっぱらった/トッテチッテター/河童は菜っ葉を買った/河童は菜っ葉をいっぱい買った/買って、切って、食った」
そしてこれを英訳したら、もう原語の音のゆかいな響きはきれいさっぱり消えてしまい、「なんだこりゃ」という意味不明のものになる。同じことが英文の和訳で起こってもおかしくない。おそらくだがシェークスピアにも同様の訳の困難さがあるのだろう。

それでもなんとか読み進めると、すぐに物語は動き始めた。物語が動くと勝手に引き込まれる。さすがだ。過剰な言葉も気にならない。なにしろ展開が早いからだ。
まず押さえておきたかったのは、物語における恋愛感情の高まりと性行動の態様とそのタイミングだ。当時の「当たり前」をのぞいてみたい。
性行動の態様なんて書くと、なんだか昆虫の観察でもあるまいし、と顰蹙を買いそうだが、統計データや漠然とした集合からでなく、生々しい情動もいっしょに追体験して(物語を読むとはそういうことだから)明らかにしたいということだ。
ところで、映画や小説では一般的にそうした性行動についての描写や記述は省かれる。それは秘すべきものとされているからだ。必要であればきちんとその場面を描くことになるが、暗示にとどめることもあれば、まったく描写しないこともある。いずれにせよ作家の中でははっきりとここでこういうことがあったとそれを前提に書き進めるわけだから、人物の意識や関係性の微妙な変化が見て取れることになる。子供の頃はわからなかったが大人になると、なるほどそういうことだったのかと作家の意図がわかって物語の味わいが深まることも多い。もちろん作家があからさまな種明かしをすることはほとんどないし、読み手観客の解釈も自由である。公式解答などない。

ロミオとジュリエットの出会いは、そのまま現代で言う「一目惚れ」である。実はロミオは想いを寄せていた女性から拒まれ失意のどん底にある。あいつばかりが女ではないよと親友らが気晴らしにと舞踏会に誘ったのだ。ジュリエットは14歳だが、当時はすでに子供があってもおかしくない年齢だ。両親から縁談を勧められており、その相手を一目見よと引き出された気の進まない出席だ。まずロミオがジュリエットの姿に一目で心惹かれる。理由はただひとつ、美しかったかららしい。その他の美点は述べない。ただ、なんときれいな女性だとひたすら感嘆している。ところで、その美しさとはあくまでロミオの個人的主観だ。ジュリエットを美しいと述べているのは彼の他には彼女の身内や関係者だけだ。ロミオは「今まで私は美人というものを実はたことがなかったのだ!(つまり、今まで美人だと思っていた女性よりもはるかに美しい!)」とまで言って興奮している。それほどの超絶美人なら、もっと以前から評判が広まっていてもおかしくない気もするし、ロミオの親友たちも特にジュリエットに目を留めることもなくスルーしている。
美しさとはそういうことだ。もちろん造形や気配で皆が一様に美人だと認める人もあるし、そうした共有された尺度はある。それでも最後の決め手は個人の主観なのだ。映画で絶世の美少女がジュリエットを演じるのは正しい。それは、ロミオが見たジュリエットなのだ。ロミオにはそう見えたのだ。面白い。男女が相手を「好きになる」とはそういうことだ。単にあばたもえくぼということではない。魅力は主観に存在する。そしてそこに、不思議な一対が生まれる。それは奇跡のように見える。

ジュリエットを目にし、その美しさに打たれるロミオだがもう次の場面ではジュリエットのもとへ行きその手を取っている。はじめの一言から、もう詩的な言葉で遠回しにキスを求めている。ジュリエットの方もはじめから前のめりだ。彼女は、聖者(ジュリエットのこと)が手に手を触れるのも正式な巡礼(ロミオとかけている)だとキスをはぐらかす。ロミオはそれに対し、聖者は唇を持っていないのだろうかと彼女にさらにキスを迫る。そうしてジュリエットは暗に受け入れるかのように、祈りのために聖者は唇を持っていると答える。ロミオは、ならば祈りのキスをと願い出る。ジュリエットは、聖者(自分のこと)は祈りなら受け入れるがじっとして自分からは動かないと答え、いよいよ彼はそのまま動かないでと言って彼女にキスをする。もう一言互いに言葉を遊び、もう一度キスをする。そこへ乳母や友人がやってきて二人は離れる。これだけである。
たったこれだけである。これだけなのだ。最初にして決定的に二人を運命づけた出会いは。うーん。
舞踏会の終わる前に互いが敵同士の家の者同士と知る。
いよいよ舞踏会が終わり散会となる。ロミオはジュリエットに今一度会いたくて塀を乗り越え中庭に潜む。そして有名な「あなたはどうしてロミオなの」のシーン。バルコニーのジュリエットと中庭のロミオが再び言葉を交わすのだが、もう二人は互いにひたすら長々といかに相手を愛しているか熱にうかされたように語り合う。そうしてもうここで結婚の約束をするのだ。
ここから二人の運命は急転して行く。駆け足でまとめるとこうだ。翌日に二人は神父のもとで秘密の結婚式を挙げるが、その一時間後にロミオがジュリエットの従弟を殺害してしまう。彼は都市からの追放刑を宣告されるが、ひそかにジュリエットのもとを訪れ、いよいよその夜二人は夜明けまで一緒に過ごす。翌朝ロミオは逃れひとまず町から去るのだが、ジュリエットは父母から二日後に結婚することを命じられる。そして神父の計略により、その夜ジュリエットは仮死の薬をあおぐ。朝になり、ジュリエットは亡くなったと皆が悲しみに沈む。神父の計画がロミオに伝わらず、ロミオもジュリエットが死んだものと思い込み絶望して服毒死する。仮死から目覚めたジュリエットは死亡しているロミオを見て後追い自殺する。
こういう顛末だ。

ところで、ロミオとジュリエット、というと何か甘いラブストーリーめいた扱いがあるが、その表題のとおりこれは悲劇だ。シェークスピアの四大悲劇は、救いのない絶望の物語だ。リア王は娘たちに捨てられ嵐の中で発狂する。マクベスは野心に駆られ主君を殺害して王になるが亡霊に苦しめられ破滅する。父を殺し母と再婚して王に君臨した叔父に対しハムレットは復讐の鬼と化し恋人は自殺し、叔父への復讐を果たすが恋人の兄を不本意にも殺害し自分もその手で殺される。名将オセロは謀略に騙され嫉妬に狂い最愛の妻を殺し、結果自殺する。それらはまったく美しい物語ではない。繰り返すが、救いのない暗い絶望の物語である。
ロミオとジュリエットは喜劇的な明るさもあり、さらに最後には、敵対し合うそれぞれの父が二人を死に追いやったことを悔いる台詞で終わり、それがわずかな救いを示してもいる。しかし、その代償としての若者たちの死はもう取り返しがつかない。
1936年版の映画では二人の会話はほぼそのまま戯曲の台詞のとおりである。ただロミオ役の男優が43歳でジュリエット役が34歳だ。演技は達者なので豪華なロケーションで多様なアングルやアップを多用した舞台(それが映画だが)と見るくらいがちょうどいい。それはあくまで大人の演じる若者だから、落ち着きがにじみ出るし、幼さを演じるとあざとい。しかし原作を味わうよい手助けになる。
その他の映画版はYouTubeで予告編や断片を見るくらいだが、オリビアハッセイのものは実際にそれぞれ17歳と15歳が演じている分映画らしいが、子供がいてもおかしくない中世イタリア貴族の14歳の役を現代の15歳の少女が演じやすいとも思えない。これも映画作家の実験的な試みだし、やはりこれは新しい現代の作品だ。映像見ると例えば抱擁のシーンなどいかにも情熱的で、たとえばキスも「むさぼるように」という表現がぴったりだ。恋の激情に駆られ、無軌道な恋情があふれほとばしる演出となっている。印象的なニノロータの音楽も相まって、相当に観る者をエモーショナルに揺さぶりそう。最初のキスのシーンは原作の台詞をなぞっている。あと、ディカプリオがロミオを演じるものは、敵対するマフィアに置き換え現代物語としているらしい。一方で台詞は原作戯曲を正確に使用していると聞いたが、そんな離れ業が可能なのか、ちょっと信じられない。

ところで、昨日「与謝野晶子と柳原白蓮」の作品と人生を紹介するテレビ番組を見た。情熱の恋に生きた二人の女性という括りだ。白蓮は夫ありながら年下の青年と駆け落ちし、離婚を勝ち取りその青年と結婚する。晶子は内縁の妻と子もある男性(鉄幹)を略奪婚のような形で結婚する。特に白蓮は、姦通罪(夫が愛人を持つことは裁かれないが、妻が夫以外の男性と性交渉すると夫の訴えにより犯罪として罪に問われ、その男性との結婚は生涯許されない)により訴えられるのを覚悟の上の危険な行動である。番組では、当時女性に許されていなかったことを勇気をもって行動した女性として紹介されたが、この二人はその行動が言わば「成功」した先例ということではないだろうか。二人は傑出した才能に恵まれた人であるが、同様に恋情に駆られ規範も批判も無視して行動したために人生を圧し潰された数々の名もなき女性たちがあったはずだ。もちろん歴史に名も残らないし、讃えられるどころか、一族の恥として存在を否定されるほどの報いの罰を受け、あるいは懲役の刑に服し消えて行った多くの女性たちがあっただろう。そういった女性をモデルに、たまたま西鶴が物語にして書きとどめたのが好色五人女であったとも言える。そうした累々たる悲恋物語が歴史の傍らにあったということだ。

ロミオとジュリエットもそういうことではないか。ルネサンスのイタリアを舞台としているが、もともとは伝承された古潭に由来する物語である。二人を理解する町の神父が、結婚式の前に、その顛末を暗示するかのような不安を口にする。
「そういう激しい喜びは、激しい終わりを持ち、その得意の絶頂で、ちょうど、接すると同時に燃えつきる火と火薬のように死ぬものだ。もっとも甘い蜜も、その甘さのために反って厭わしく、味わうと食欲をぶち壊す。だからほどほどに愛しなさい。長続きのする恋は、そういう恋だよ。速すぎるということは、のろすぎるのと同じで、着くのが遅れるものだ」
これは教訓というよりも、二人のたたずまいがおのずと漂わせる「異常さ」に対する直感的な怖れが口にさせた言葉ではないか。これも上に述べた累々たるまさに悲劇の予感だったというわけである。
まだ「ロミオとジュリエットの悲劇」その感想をうまく言葉にまとめられない。もう少し熟し発酵させたい。