物語は現実に奉仕する
以前、或る映画を見て酷く不快な気分になったことがある。
それは犯罪加害者の家族が、そのために受ける仕打ちを描いた作品だ。北米の国際映画祭で賞を受賞している。
主役は名の通った十代のテレビ女優。加害者の妹であるその少女を守る刑事の役が佐藤浩市。テーマも興味深いし、国際映画祭受賞作品だからと、期待したのが間違いだったのかもしれない。
最初から徐々に違和感が膨らみ、ええ?と呆れる場面がいくつも連なった。
さらにあっさりと母が自殺して少女がパニックに陥り精神的に混乱して暴れる。それを刑事の担当医であり恋人でもある女性精神科医が力任せに押さえつけて大声で怒鳴る「落ち着きなさい!!」
椅子から落ちそうになった。この世のどこに興奮して平常心を失った大人に怒鳴られて落ち着く少女があるのか。つまり「落ち着く」という精神の平穏安定した状態に、我を忘れ興奮した暴力が導くことができるはずなどない。当たり前だ。それを専門家である精神科医が行っているという、例えば生ゴミ、泥まみれの手で医師が開腹手術を大真面目な顔でやっているような図だ。何が精神科医だ。素人以下。いい加減にもほどがある。
さらにだ。しばらくして女医が髪を乱し刑事の部屋に現れる。刑事が尋ねる。少女はどうした?女医が答える。「注射をして眠らせた」はあ?狂乱状態で暴れる高校生の少女をこの女医は一人でどうやって注射したのだ。羽交い締めにして身体を固定する何か特別な格闘技の達人なのか。その間にどういう風にして注射器を用意した。そもそも、そんなに一瞬でコロリと鎮静催眠する強力な危険極まりない薬物を普段から持ち歩いていたらしいのだ。めちゃクチャだ。あまりの現実離れした展開にアホらしくて、笑いたくなった。漫画でもこんないい加減な展開はないだろう。
そしてそれより腹が立ったのは首を吊った母の姿を見た少女が翌日には母のことなど忘れたように振舞うが、それが自分の精神を防衛するための心理でもないようなのだ。要はもう母の死はストーリーに特別取り上げる必要もなくなったということ。そしてラストシーンでは、明るく一歩を歩み出す少女の姿を描いてあった。母の自殺という強烈な人生の衝撃も、ただの効果音のひとつでしかなかったのだ。つまり、主人公の身に起こる不幸という演出の仕掛けのひとつに過ぎなかったということだ。
怒りを感じた。「人の不幸を物語の演出に使うな!」ということだ。
演者に罪はない。脚本への怒りだった。
この監督脚本家の有名な別作品を知った。そして、さもありなんと納得した。
この映画を一言で言えば、佐藤浩市の無駄遣い。
ところが、この映画は国際映画祭で「脚本賞」を受賞しているのだ。国際映画祭なんて、こんなものなのか?と唖然とした。
あとで、この映画祭は日本映画が受賞することが多く、それは賞を得たい日本映画界とステータスを上げたい映画祭側の利害が一致した結果だという評論も見た。優れた受賞作もあるだけに残念。
物語を創作するものとして守らねばならぬラインがある。「人の不幸を物語の演出のために使ってはならない」そこには、必然もない。安易な情報としての仕掛けに過ぎない。
あらゆる人生の出来事にリアリティや内在的な意味合いを失わせる、「事実の情報化」を物語が進めてしまっている。人間存在の尊厳、人生の痛みへの畏敬、世界の光と闇その深淵へのまなざしとは対極。エンタテインメントだからというものではない。どんな例えばコミカルであろうと、あるいはアクションストーリーであろうと、そのベースの人間観世界観は否応なくにじみ出る。ましてやシリアスな社会派を気取った作品のこの体たらく。呆れ、とても不快だった。
物語は現実のしもべである。事実の深淵、いわば事実を事実たらしめる神意のために、物語は奉仕する。
そう思うのである。